伝記
ニコラ・フラメルは、1330年ごろ(1340年ごろとする見方もある)に生まれ、1418年3月22日にパリで没した、フランスの出版業者・写字生である。生地はパリの近郊ポントワーズかともいわれる。錬金術との結びつきが語られ、賢者の石の製造に成功し、金属を変成させたという伝説で名高いが、その錬金術師としての姿は、後世に作られた部分が大きいと考えられている。
実在のフラメルについては、貴族でない人物としては比較的多くの記録が残る。サン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリ教区の記録や、彼と妻の個人文書、遺言、のちに描かれた彼の建てた建物の記述などである。青年期には1348年の黒死病を免れたとされ、生涯は百年戦争のさなかのパリで過ごされ、1389年には王妃イザボー・ド・バヴィエールのパリ入城を目にしたと考えられている。彼はサン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリ教会に接した小さな店で、写字生・代書人としての経歴を始めた。のちに向かいに家を買い、そこに住んで工房を構えた。その家の正面には信仰にちなむ彫刻や銘文に加えて、身の丈に合った暮らしを説く格言が刻まれていたという。おそらく1368年以降に、パリ大学に誓約する宣誓書籍商となった。書籍商や写字生、彩飾師らはこの大学の管轄に属し、直接税を免れる特権があった。1415年には、この特権を主張して課税を逃れようとしたことも知られる。
1370年ごろ、二度の死別を経験した裕福な寡婦ペレネルと結婚し、1372年には互いに財産を贈り合う公正証書を交わした。二人には子がなかった。事業の成功と妻の財産、不動産への投資が、彼に安定した富をもたらしたらしい。彼は晩年にその財産を、教会や病院、礼拝堂の建設や寄進に用いた。1389年、パリのサン・ジノサン墓地の周囲の納骨回廊のアーケードの一つを建てて飾らせた。そこには黒い人物として表された死の周囲に、彼の頭文字や詩、宗教的な銘文が刻まれた。同じ年、サン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリ教会の入口の改修にも出資し、自らも妻とともに祈る姿で彫らせた。1407年にパリに建てた家は、今もパリで最も古い建物として残る。
噂によって誇張されたその富が、錬金術師伝説のもとになったとされる。伝説では、彼は異国人からギリシャ語とヘブライ語で書かれた「アブラハムの書」というカバラの秘法書を得て、1379年にその解読のためスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへ巡礼した。アンダルシアでユダヤ人の師カンシュに学び、21年をかけて解読したが、師は途中で亡くなったという。帰国後は錬金術の技で財を成し、賢者の石によって不死になったともいわれた。この像は、1612年に出版された『象形寓意図の書』に基づくものだが、18世紀にはサン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリ教会のヴィラン修道士が、その内容は実在のフラメルの時代や書き方に合わないと指摘した。近年の研究も、この書は16世紀末から17世紀初めの別人による著作だと論じており、パリの出版業者フラメルが錬金術に関わったという証拠はないとの見解が有力である。
伝説の中では、妻ペレネルも夫とともに錬金術の作業を行ったとされる。当時、欧州で女性が錬金術に関わることは稀で、多くの場で禁じられていたため、彼女は希有な例として語られる。彼の名はのちの創作にも受け継がれ、『ハリー・ポッターと賢者の石』では665歳の人物として名前が登場し、夫人も現れる。
同じ年に亡くなった人物
- スチェパン・オストヤ (1418年)
- ベアトリーチェ・カーネ (1418年没)
- ミルチャ1世 (1418年没)
- ベルナール7世 (アルマニャック伯) (1418年没)
- アル=カルカシャンディー (1418年没)
同じ地域に関係する人物
- ピエール・フランソワ・レオナール・フォンテーヌ (1853年没)
- デジレ・シャルネ (1915年没)
- ポール・モンテル (1975年没)
- シャルル=アンドレ・ヴァン・ロー (1765年没)
- フリードリヒ・ハートイェンシュタイン (1954年没)