伝記
カルロス3世は、1361年7月22日に生まれ、1425年9月8日に没した、ナバラ王国の国王である。1387年から在位し、エヴルー伯(フランス語名シャルル3世)としては1387年から1404年まで、のちにはヌムール公として1404年から1425年まで務めた。「高貴王」と呼ばれる。カルロス2世(邪悪王)と、王妃であるフランス王ジャン2世の王女ジャンヌの子である。
生まれたのは、パリ近郊のマントである。両親は百年戦争の事情で、エヴルー伯領などフランスの所領を守るため、ナバラをたびたび離れていた。1361年11月に父王がナバラへ戻ったあと、赤子のカルロスは母とともにフランスに残され、1363年には、エヴルーで叔母のブランシュのもとに預けられた。1366年8月、5歳のときに初めてナバラの地を踏み、父王はほとんど知らなかった二人の息子を出迎えた。1369年には、幼いながら、王国の代理を称した。1373年11月3日に母ジャンヌがエヴルーで急死した。1375年5月27日、ソリアでカスティーリャ王エンリケ2世の娘エレオノールと結婚し、これは両国の争いに終止符を打って、友好関係のもとになった。1378年には、父の命でフランス宮廷への使節を率いたが、王に対する陰謀が発覚してパリで捕らえられた。同じころ、ナバラはフランスの領地を失い、カスティーリャのエンリケ2世が侵攻して、ブリオネスの屈辱的な条約が結ばれた。
1387年、父王の死去で王位と伯位を継いだ。父の治世に失われた国威の回復と、領内の基盤の整備に努めた。外交では、対立していたフランスとカスティーリャとの関係の改善に努め、カスティーリャとは王女エレオノールとの結婚で手を結んだ。フランスとは1404年に、ヴァロワ家との緊張の原因だったノルマンディー地方のエヴルーとアヴランシュを、ヌムール公領と交換し、シェルブールとシャンパーニュの権利も年金と交換して、関係を改善した。フランスの内乱では、ブルゴーニュ派と組み、1409年3月にシャルトルで行われたブルゴーニュ公ジャン無怖公とオルレアン公シャルルの和解式に出席し、11月には無怖公と同盟を結んだが、内乱そのものには関わらなかった。
芸術を愛したカルロス3世は、フランスから画家や建築家を招き、首都パンプローナと郊外のオリテにゴシック様式の建物を造らせた。パンプローナでは大聖堂を改築し、オリテでは既存の宮殿を1401年から大改修して、1420年に完成した。完成した宮殿は、複数の塔と庭園を備えた王家の憩いの場となった。1418年には、複雑なナバラの法を修正して発布し、貴族寄りの政策も取った。1423年には、パンプローナの自治体の紛争に介入して3つの自治体を統合し、一つの行政機関にまとめた。晩年は後継者選びに苦労した。息子が夭折したため、長女ブランカを後継者に定め、結婚相手にアラゴン王子フアンを選んで、1419年に結婚させた。結婚の条件として、フアンには、家臣はナバラ人だけにすること、勝手にナバラの土地を配分しないことを求めた。二人のあいだに生まれた孫のカルロスには、ビアナ公位を与え、夫妻の王位継承者に決めた。1425年に64歳で死去し、ブランカ1世とフアンの夫妻がナバラ王位を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン3世 (バイエルン公) (1425年没)
- 足利義量 (1425年没)
- マヌエル2世パレオロゴス (1425年没)
- 洪熙帝 (1425年没)
- マードック (1425年没)
同じ地域に関係する人物
- カルロス2世 (ナバラ王) (1387年没)
- テオバルド1世 (ナバラ王) (1253年没)
- サンチョ4世 (ナバラ王) (1076年没)
- フリオ・カロ・バローハ (1995年没)
- ガルシア6世 (ナバラ王) (1150年没)