HISTORICAL PERSON · 1438年没

ヤコポ・デッラ・クエルチャ

ルネサンス期シエナ派の彫刻家。ゴシックから初期ルネサンスへの過渡期を代表し、シエナのガイアの泉やルッカのイラリアの墓碑彫刻で知られる。

生涯
1438年没
死亡地
イタリア共和国(シエーナ県 / シエーナ)
出生地
イタリア共和国(Quercegrossa)
出典
世界地図
イタリア共和国(シエーナ県)

伝記

ヤコポ・デッラ・クエルチャは、ルネサンス期イタリアのシエナ派の彫刻家である。ブルネレスキ、ギベルティ、ドナテッロと同時代の人で、ミケランジェロの先駆者と見なされている。1374年頃に生まれた。名は、故郷のシエナ近郊のクエルチャ・グロッサに由来する。木彫師で金細工人でもあった父ピエロ・ダンジェロから初期の教育を受けた。最初の仕事は、16歳のときにアッツォ・ウバルディーニの葬儀のために作った騎馬の木像だったといわれる。その後、派閥争いに伴う不安から、父とともにルッカへ移った。

ルッカ大聖堂の『悲しみの人』と聖アニエッロの墓のレリーフは、異論もあるが初期の作品といわれる。1401年には、フィレンツェの洗礼堂のブロンズの扉のデザイン・コンクールに参加してギベルティに敗れた。1403年にはフェラーラへ行き、大聖堂の『聖母子』の大理石像を作り、『聖マウレリウス』像もこのとき作られたと考えられている。1406年にルッカに戻ると、町の統治者パオロ・ギニージから、その二番目の妻イラリア・デル・カッレットの墓碑を頼まれた。完成した墓は、石棺の上に、繊細なゴシック様式でイラリアが着飾って横たわり、足元には貞節の象徴の犬がいる。一方、側面には裸のプットが配され、ピサの墓地にある古代ローマの石棺の影響がうかがえる。初期ルネサンスの始まりを告げる先駆的な作品とされる。

同じ1406年には、シエナのカンポ広場の仕事を依頼された。女神ウェヌスの像があった泉を、新しく作り直す仕事であった。ウェヌス像はペストの流行の原因と非難されて壊され、城壁の外に埋められた。1412年には、商人ロレンツォ・トゥレンタから、ルッカのサン・フレディアーノ聖堂のトゥレンタ礼拝堂の設計を頼まれた。しかし1413年、助手のジョヴァンニ・ダ・イモラとともに重い罪で訴えられた。罪状は盗み、強姦、男色とされる。クエルチャはシエナへ逃げて「ガイアの泉」に取りかかり、助手は3年の服役刑を受けた。1416年3月に、通行の安全を保証する認可状を得て一度だけルッカに戻り、礼拝堂の大理石の祭壇の仕事を再開した。新しい泉は、聖母マリアに捧げられた大理石の長方形の泉で、三つの面に多くの彫像と噴水口が飾られ、着工は1414年、完成は1419年であった。幸運と祝いをもたらすとして「ガイアの泉」と呼ばれ、今も多くの観光客が訪れる。1858年に複製と取り替えられた元の彫刻は、プッブリコ宮の開廊にある。

1416年、ギベルティがシエナ大聖堂の洗礼堂の洗礼盤のブロンズのパネルを依頼されたとき、政治的な内紛からクエルチャもこの計画に加わり、『聖ザカリアへの告知』を一つ作った。1421年には、サン・ジミニャーノのコッレジャータ教会のために、多彩色の木像『受胎告知』を彫った。1425年にはボローニャのサン・ペトロニオ聖堂のポルタ・マグナのデザインを依頼され、亡くなるまでの13年間、これにかなりの時間を割いた。最高傑作とされ、扉の下部には旧約聖書の五つの場面のレリーフがある。『アダムの創造』は、「ガイアの泉」と同じ意匠を左右逆にしたものである。1494年にボローニャを訪れたミケランジェロは、システィーナ礼拝堂の『創世記』を、この浮彫に基づいて作ったと認めたという。1435年にはシエナで騎士に叙され、大聖堂のオペライオの地位を得た。1438年に亡くなり、シエナのサンタゴスティーノ教会に葬られた。ギベルティらに高く評価され、ヴァザーリの『列伝』にも名が記されている。

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