伝記
デヴィッド・O・セルズニックは、1902年5月10日にアメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグで生まれた映画プロデューサー・脚本家である。父ルイス・J・セルズニックはキエフに生まれ、イギリスを経てアメリカへ移民した人物で、ピッツバーグで宝石商となり、1912年にユニヴァーサル映画に勝手に机を持ち込んで映画ビジネスを始めたとの逸話がある。兄のマイロンは、のちに大物エージェントとなった。名前のミドルネーム風の「O」は、同名の叔父と区別するために加えたものだが、この文字には何の意味もないという。15歳のころにはすでに、父の会社で、題材にする話を評価する仕事や宣伝部の運営に携わり、18歳で社内向けの週刊誌を発行した。
コロンビア大学で学び、1923年に父の会社が破産するまで映画の製作、配給、宣伝を学んだ。その後、ニューヨークでニュース映画を製作し、ボクシングなどのドキュメンタリーも2本手がけた。1926年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーに入る。父と仲の悪かったルイス・B・メイヤーは反対したが、興行面で力を振るうニコラス・シェンクが後押しした。脚本の係から昇進し、1927年には最も有望な幹部としてアーヴィング・タルバーグのチームにいたが、制作の進め方でタルバーグと衝突して、同年11月に撮影所を去り、パラマウントに移った。ここでも総支配人のB・P・シュールバーグと衝突し、3年後にRKOに移って『キング・コング』などを制作した。タルバーグが病気療養中に、義父のいるMGMに復帰したが、この復帰劇は揶揄された。メイヤーの娘アイリーンとは交際して結婚している。
野心家で人の下につくことを好まず、1935年に独立してセルズニック・インターナショナル・ピクチャーズを設立した。『スタア誕生』や『ゼンダ城の虜』(ともに1937年)の後、超大作『風と共に去りぬ』(1939年)と、ヒッチコックをイギリスから呼んで撮らせた『レベッカ』(1940年)で、2年連続でアカデミー作品賞を獲得した。ヒッチコックは『レベッカ』について、あのオスカーはプロデューサーのセルズニックに与えられた賞だと述べたほどである。1939年度のアーヴィング・G・タルバーグ賞も受けた。作品のオープニングでは、アルフレッド・ニューマンの短いテーマ曲にのせて社屋が映し出された。
完璧主義者としても知られ、作品に関しては監督に任せず、『風と共に去りぬ』ではジョージ・キューカーからヴィクター・フレミングに監督を交代させた上に、サム・ウッドにも分担させた。『白い恐怖』や『ジェニイの肖像』、『第三の男』などもプロデュースし、『白昼の決闘』や『パラダイン夫人の恋』では脚本も書いた。1948年にアイリーンと離婚し、1949年に女優のジェニファー・ジョーンズと再婚した。妻との関係は良好だったという。しかし、うるさく口を出す方針が嫌われ、監督からも俳優からも疎んじられるようになって、契約を拒まれ、ろくに制作もできなくなった。最後には多額の負債を抱えて破産寸前になり、精神科医にかかったこともあった。1965年6月22日にロサンゼルスで死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィリアム・ペテション (1965年没)
- ジョゼ・メンデス・カベサダス (1965年没)
- ヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン (1965年没)
- 山田耕筰 (1965年没)
- ナンシー・キャロル (1903年生の女優) (1965年没)
同じ地域に関係する人物
- バルーク・サミュエル・ブランバーグ (2011年没)
- ゲイリー・クーパー (1961年没)
- ラリー・キング (2021年没)
- ロン・ピッグペン・マッカーナン (1973年没)
- フランク・ザンボニー (1988年没)