伝記
パコルス2世は、アルサケス朝パルティアの王である。在位は78年から105年ごろとされるが、110年まで在位したともいわれ、没年にも幅がある。名はギリシア語のパコロスのラテン語形で、中期イランの語パクルに由来し、古イラン語の「神の子」を意味する語にさかのぼるという。治世中にたびたび貨幣の発行が途切れていることから、王位は不安定だったと考えられている。
ヴォノネス2世の息子と伝えられるが、ヴォロガセス1世の子とする記述もある。ヴォロガセス1世の治世の後半には父とともに国を治めたとされ、貨幣の図像から、即位したのは16歳か17歳のころとみられている。別の伝えでは、兄ヴォロガセス1世からアトロパテネ王国の王に封じられていたが、激しくなったアラン人の侵入を食い止められず、71年に王位を失ったという。78年にヴォロガセス1世が死去すると、後継をめぐってヴォロガセス1世の子ヴォロガセス2世と争った。西部の領土を拠点に戦いを進め、80年にはヴォロガセス2世を追放したが、同じ年のうちにアルタバヌス3世がパルティア王を名乗って敵対した。アルタバヌス3世はバビロニアを除けば支持が乏しかったともいわれ、ネロを名乗る偽者テレンティウス・マクシムスをかくまったことで知られる。当初は偽ネロに軍事援助を与えてローマを攻めさせようとしたが、正体を知って取りやめたとされる。アルタバヌス3世の貨幣は81年以降に姿を消し、このころまでにパコルスが退けたと考えられる。一方で、アルタバヌス3世が約10年にわたり西部で影響力を保ち、貨幣の発行権を握ることもあったが、90年ごろにパコルス2世の侵攻で権力の座を追われ、パルティアが再統一されたという記述もある。
パコルス2世は、アルタバヌス2世以来の方針を引き継ぎ、東アジア、インド、地中海沿岸を結ぶ長い交易路をつくって国の経済を高めようとした。そのため遠方との交易が可能な勢力、とりわけ漢との関係を強めた。97年、西域都護の班超が部下の甘英をローマ帝国への使節として送り出すと、甘英はヘカトンピュロスのパコルスの宮廷を訪れたとされる。ペルシア湾まで西に進んだところで、パルティア側の役人にアラビア半島を回る苦しい航海しかローマへ行く道はないと説得され、気落ちして漢の宮廷に戻った。そして、パルティア人から聞いたローマについての詳しい報告を和帝に提出した。また、ホラズム、バクトリア、ヒンドゥークシュといった東方への関心も強まり、これらの地域の多くの勢力の貨幣にパルティア風の要素が見られることが、その影響の大きさを示している。
貨幣の表には、当初ひげのない若い姿で、82年から83年ごろからはひげをたくわえた姿で描かれ、93年から96年には父の三角帽を着けた姿になった。貨幣の表は王冠のみを着けた姿で、裏面には、王に王権を授ける女神テュケが描かれることが多くなった。晩年には、息子のヴォロガセス3世と共同で統治し、東部の領土ではヴォロガセス3世が王を名乗って貨幣を発行するようになった。109年にはオスロエス1世が第三の対立者として現れ、110年にパコルスはアルサケス家の従属王国オスロエネをアブガル7世に売ったとも伝えられる。パコルス2世の死後、西部領土での地位は兄弟のオスロエス1世が継いだとも、息子のヴォロガセス3世が継ぎ、オスロエス1世との王位争いを続けたともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- マルクス・ウアレリウス・プロブス (105年)
- Plutarch of Byzantium (105年)
同じ地域に関係する人物
- アルテミタのアポロドロス (紀元前86)
- ティリダテス1世 (紀元前210年代没)
- アルサケス1世 (紀元前210年代没)
- アンドラゴラス (紀元前238年没)
- アルサケス2世 (紀元前191年没)