伝記
ゼフィリヌスは、初期のローマ教皇である。カトリック教会の伝承では第十五代のローマ司教とされ、在位は199年ごろから217年ごろとされるが、198年からとする説もあり、没年も217年ごろと推定にとどまる。ローマの出身で、アッボンディオという人物の子と伝えられるが、それ以外の出自は分かっていない。先代の教皇ウィクトルの後を継ぎ、ローマ帝国の皇帝セプティミウス・セウェルスとカラカラの時代にローマ司教を務めた。
この時代は、キリスト教が広まるにつれて、正統思想をおびやかす異端思想が現れた時期にあたる。ゼフィリヌスはその対応に苦慮したとされる。また、ペトロとパウロの殉教地としてのローマが注目され始めたのも、この頃であったという。人物としては目立たない存在だったらしく、対立者であるヒッポリュトスは著書『全異端反駁論』で、単純で教養のない人物として描いた。ただし、この評は高度な学問を修めなかったが、教会の実務的な運営に力を注いだという意味に解することもできる。
選ばれた直後、彼はアンティウムで暮らしていたカリストゥスをローマへ呼び戻した。のちに教皇となるこの人物を助祭とし、秘書に任じて、教会が所有する礼拝所の管理と、アッピア街道沿いの墓地(カタコンベ)の管理を任せた。この墓地はのちにカリストゥスのカタコンベと呼ばれ、三世紀の主要な教皇たちが葬られた。アレクサンドリアの大神学者オリゲネスも、きわめて古い教会を見たいと願って、彼の在任中にローマを訪れた。教皇の書には、聖職者の叙階と聖体祭儀に関する二つの教令が彼の名で伝えられているが、初期の教皇によくあるように、これを裏づける史料は十分でない。
十八年ほどの在任中、若い教会はセウェルス帝のもとで迫害を受けた。皇帝の統治の初めは穏やかだったが、次第に悪化し、202年か203年に、改宗を厳罰で禁じる勅令が出された。きっかけは、皇帝の即位十周年を祝う儀式にキリスト教徒が参加を拒んだことらしい。翌年には、教義に反しない儀式にだけ参加するという妥協が成立して、処罰は和らげられたり廃止されたりした。ただしローマでの勅令の実施や殉教者については何も分かっていない。
教義の面では、ミレウィスのオプタトゥスによれば、マルキオン派、プラクセアス、ウァレンティノス派、モンタノス派といった新しい異端と戦い、三位一体、とくにイエスの神性をめぐる争いに直面した。しかし神学の素養は乏しかったらしく、補佐役の司祭カリストゥスを頼った。異端者テオドトスの一派はローマで独自の集団をつくり、告白者ナタリオスを月々百五十デナリウスで司教に迎えたが、彼は幻視に悩まされたのち、ゼフィリヌスの足元で涙ながらに罪を告白し、教会との交わりに戻ったという。モンタノス派もローマで活発に活動し、モンタノス派のプロクロスが新しい預言を擁護する文書を出すと、厳格な正統派の学者ガイオスが対話形式で反論し、ヨハネの黙示録をグノーシス主義者ケリントスの作とみなして退けた。これに対してヒッポリュトスはガイオスへの反論を書いた。ヒッポリュトスは近東から来たローマの司祭で、非常に博識で、当時のローマの司祭のなかで最も重要な神学者であり、神のロゴスの教説を支持した。彼はゼフィリヌスを批判し、とくにカリストゥスの影響力を問題にし、彼を野心的で貪欲だと非難した。ゼフィリヌスは死後に聖人とされ、記念日は八月二十六日である。後継者にはカリストゥスが立った。
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