HISTORICAL PERSON · 1971年没

林彪

中華人民共和国の政治家・軍人で元帥。劉少奇の失脚後に毛沢東の後継者に指名されたが、政争に敗れ、ソ連への亡命途上でモンゴルで搭乗機が墜落し死亡した。

生涯
1971年没
死亡地
モンゴル国(ヘンティー県 / チンギス)
出生地
中華人民共和国(黄岡市)
出典
世界地図
モンゴル国(ヘンティー県)

伝記

林彪は、1907年12月5日に中国の湖北省黄岡県で生まれ、1971年9月13日にモンゴルで没した中華人民共和国の政治家、軍人である。中華人民共和国元帥の一人で、国務院副総理、国防部長、党中央軍事委員会第一副主席などを歴任した。文化大革命のさなか、毛沢東の後継者に指名されたが、1971年9月に政争に敗れ(林彪事件)、ソ連へ向かう途中、搭乗機がモンゴルで墜落して死亡した。

両親は、小さな織物工場を経営する中産階級だったとも、貧しい農家だったとも言われる。1923年に中国社会主義青年団に参加し、1925年に黄埔軍官学校に入り、中国共産党に入党した。卒業後は国民革命軍で小隊長や中隊長を務め、1927年8月の南昌蜂起に参加して、井崗山で毛沢東に合流した。長征にも参加し、紅軍の軍団長などを歴任して、英雄的な指揮官として名を馳せた。1937年7月に抗日戦争が始まると、八路軍第115師を率いて、山西省で遊撃戦を指揮した。1938年11月に頭部に受けた戦傷の治療のためソ連に行き、この治療が原因でモルヒネ中毒になった。1942年2月に延安に戻り、中央党校の副校長となった。国共内戦では、東北民主連軍の総司令や、第4野戦軍の司令員として活躍した。

1949年10月の中華人民共和国の成立後は、中南軍政委員会の主席などに就いた。同年末に、モルヒネ中毒の治療を目的として再びソ連を訪れた。1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、毛沢東から中国人民志願軍の司令官に指名されたが、病気療養を理由に辞退した。1954年に国務院副総理兼国防委員会副主席に任命され、1955年9月に、十大元帥の一人となった。1950年ごろから統合失調症を患い、約9年間、一切の活動から身を引いたと伝えられる。風や日光、水を恐れて外出を避け、液体の飲食物を拒んだという。1959年7月から8月の廬山会議で、彭徳懐が大躍進運動を批判して国防部長を解任されると、その後任となり、党中央軍事委員会第一副主席にも任じられて軍権を握った。軍の政治教育を重視して、毛沢東思想への恭順を推進し、1959年に『毛主席語録』の編集と刊行を命じた。1964年に刊行された増訂版には、序文を寄せている。1966年5月に文化大革命が始まると、「毛沢東の軍師」として、多くの軍幹部を失脚に追い込んだ。

1966年8月に党内序列第2位に昇格し、1969年4月の第9回党大会で、毛沢東の後継者として公式に認められた。しかし、毛沢東が国家主席の廃止案を表明すると同意せず、野心を疑われた。1970年8月ごろから、林彪とその一派は毛沢東を持ち上げたが、批判され、息子の林立果が権力掌握の準備を進めた。1971年9月、南方を視察していた毛沢東に「極右」と批判されると、毛沢東の暗殺を企てたが失敗し、逃亡したとされる。軍の旅客機で山海関の空軍基地を離陸し、ソ連へ逃亡する途中、モンゴルで墜落死した。燃料切れ説、機内での乱闘説、ソ連によるミサイル撃墜説などがある。死後の1973年8月に党籍を永久に剥奪され、1981年1月の裁判では「林彪・江青反革命集団の頭目」とされた。近年は、革命期の軍人としての功績を再評価しようとする動きもある。

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