伝記
フェリペ1世は、カスティーリャ女王フアナの王配で、一時期カスティーリャ王を称した人物である。ブルゴーニュ公としてはフィリップ4世にあたり、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とブルゴーニュ女公マリーの長子として、1478年に生まれた。その端麗な容姿から「美公」と呼ばれるが、この呼び名は死後につけられたとされる。
1477年、突進公シャルルがナンシーの戦いで戦死し、一人娘のマリーは婚約者マクシミリアンと結婚した。翌1478年にはフランス王ルイ11世がエノーに侵攻したが、マクシミリアンは初陣を勝利で飾り、嫡男が生まれた。ルイ11世は、ブルッヘで生まれたのが女児だったとの噂を広めたが、突進公の後妻マーガレットはフィリップを裸にして人々に見せて回り、噂を否定したという。1482年3月、母マリーは落馬事故で重体となり、フィリップとマルグリットの二人を相続人に指定し、フィリップが15歳に達するまで夫マクシミリアンを後見人とする遺言を残して、27日に世を去った。すると各地で叛乱が起き、妹マルグリットはフランス王太子シャルルと婚約させられ、フィリップ自身は急進的なヘント市民のもとで養育されることになった。父マクシミリアンは摂政としての地位を失ったが、帰郷せず叛乱の平定を続け、1485年にブルッヘとヘントを開城させて、3年ぶりに息子と再会した。父の記憶が薄れていたフィリップは、抱きしめられて驚いて泣き出し、父も涙を流したことが年代記作家によって記録されている。狩りやトーナメントが得意で、話術も巧みな、「素敵な公子」だったという。
1495年10月にフランス王シャルル8世がミラノに侵攻すると、翌11月に、アラゴン王フェルナンド2世が働きかけていた二重結婚の約が成立した。1496年春、ゼーラントに到着したフアナ一行をフィリップは出迎えず、新婦を落胆させたが、婚礼の前日に対面した二人は互いに惹かれ合い、その場で簡素な結婚の儀式を行った。フアナが夫を熱愛する一方、フィリップは好色で、やがて妃の激しい気性に愛想を尽かすようになった。フアナの奇行によってブルゴーニュ宮廷でのスペイン人の評判は悪化し、義父フェルナンドとの関係も悪くなったが、夫妻の間には2男4女が生まれ、全員が成人した。
スペインの継承権は、兄アストゥリアス公フアンや、姉イサベルの子ミゲルの死により、フアナに移っていた。1504年11月にイサベル1世が没すると、遺言は、フアナと夫フェリペをカスティーリャの後継者としながら、フアナに統治能力がない場合は孫のカルロスが成人するまで祖父が後見するとしており、夫の共同統治権も認めなかった。フィリップと義父の対立は激化し、双方が密偵や偽造した手紙を用いて争った。1506年1月に海路でスペインへ向かった一行は、悪天候のためイングランドに漂着し、ヘンリー7世の歓待を受けた。4月にラ・コルーニャに到着すると、カスティーリャ貴族の熱烈な歓迎を受け、フェルナンドも6月28日に和解の協定を結んだ。フィリップは「カスティーリャ王フェリペ1世」を称したが、コルテスでは「王の配偶者」としか認められなかった。
9月上旬、ブルゴスで飲んだ冷水にあたり、数週間後の9月25日に28歳で世を去った。遺体はいったんブルゴスの聖堂に葬られたが、のちフアナとともに各地を巡り、最終的にトルデシリャス近郊に埋葬され、後にグラナダの王室礼拝堂に移された。カスティーリャ王位は長男カルロスが継ぎ、のちに神聖ローマ皇帝カール5世となった。
同じ年に亡くなった人物
- 燕山君 (1506年没)
- アレクサンダー・アグリコラ (1506年没)
- Marcus Antonius Coccius Sabellicus (1506年)
- アンドレア・マンテーニャ (1506年没)
- Donika Kastrioti (1506年)
同じ地域に関係する人物
- フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス (1517年没)
- エレノア・オブ・イングランド (1214年没)
- フアン・ヤグエ (1952年没)
- レオノール・デ・カスティーリャ・イ・ポルトゥガル (1359年没)
- サンチョ3世 (ナバラ王) (1035年没)