伝記
霊思何皇后は、後漢の霊帝の皇后である。何皇后、何太后とも呼ばれ、諡は思、霊帝の諡を重ねて霊思皇后という。個人の名は伝わっておらず、没年は189年である。荊州南陽郡宛県、現在の河南省南陽市宛城区の出身で、父は何真、母は何真の後妻にあたる舞陽君である。異母兄に何進、異父兄に何苗がおり、妹は宦官張譲の養子張朔の妻となった。子は少帝弁である。
生家は屠殺業を営み、後漢の皇后としては下賤の出自であった。身長は7尺1寸、約163センチメートルとされる。賄賂を用い、宦官の伝手を頼って後宮に入ったと伝えられる。後宮に入ると霊帝の寵愛を受けて貴人となり、熹平5年、176年に男子の弁を生んだ。霊帝は、先に生まれた子が幼くして死ぬことが続いたため、何か呪いのせいだと信じ、弁を道士の史子眇に育てさせたという。弁は史侯と呼ばれた。何氏は気が強く、嫉妬深く残酷だとして、ほかの妃嬪たちは皆これを恐れたとされる。
熹平7年、178年に霊帝の最初の皇后であった宋氏が廃されると、光和3年、180年に何氏が皇后に立てられた。翌年には亡き父の何真に車騎将軍と爵位が追贈され、光和6年には母にも舞陽君の称号が贈られた。この年、王美人が霊帝の子の劉協、のちの献帝を生んだ。何皇后は激しく嫉妬して王美人を毒殺し、霊帝は激怒して皇后を廃そうとしたが、宦官の取りなしによって免れた。孤児となった劉協は霊帝の母の董太后に引き取られて育てられ、董侯と呼ばれた。霊帝は、弁を軽薄で威厳に欠けるとして皇太子にふさわしくないと見る一方、劉協を立てれば何皇后が兄の何進、すなわち大将軍を頼るだろうと考えて決めかね、結局どちらも皇太子に立てなかったとされる。
永漢元年、189年に霊帝が崩御して少帝弁が即位すると、何氏は摂政皇太后となった。霊帝は重い病の床で、8歳の劉協を宦官の蹇碩に託していた。蹇碩は何進を罠にかけて殺し、劉協を帝位に就けようとしたが、何進と親しい者が計画を密告したため失敗した。少帝はまだ幼かったので、何皇太后は朝廷の会議に出て、何進と太傅の袁隗が政務を補佐したとされる。政敵であった姑の董太后との争いに勝ち、これを洛陽から追放して幽殺したという。しかし、何氏の政権を支える何進と宦官の十常侍とが争い、何進が袁紹らとともに十常侍の殺害を計画した。何氏は宦官とも結んでいたため、何苗とともにこの計画に反対した。何進が宮中に入ったところを宦官の兵に囲まれて殺されると、何進の部下たちは憤って宮中に突入し、宦官の一派を一掃した。結果として何進と十常侍は政争で共に滅び、何苗も何進の配下であった呉匡に殺され、混乱のなかで少帝と劉協は董卓に保護されて都へ戻り、洛陽に入った董卓が権力を握ることになった。
董卓は、董太后がたまたま自分と同姓であったため、董太后の仇を討つ形で何氏を排除しようとした。何太后を脅して少帝の廃位を実行し、董太后が養育していた劉協を帝位に就けた。さらに何太后に対して、かつて董太后にした振る舞いは孝の道に背くと責め、永安宮に幽閉した。何太后はのちに、子の弘農王劉弁とともに、董卓の命を受けた李儒によって毒殺された。霊帝の陵に合葬されたが、董卓はその際、霊帝の陵の副葬品をことごとく奪い取ったという。小説『三国志演義』では、李儒に毒酒を勧められた何太后がこれを拒み、幽閉されていた塔の上から突き落とされることになっている。
同じ年に亡くなった人物
- 丁原 (189年没)
- エレウテルス (ローマ教皇) (189年没)
- 何進 (189年没)
- 霊帝 (漢) (189年没)
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