伝記
何進は、後漢末期の武将・政治家で、字は遂高という。荊州南陽郡宛県、現在の河南省南陽市宛城区の人で、189年に没した。父は何真で、異母妹は霊帝の皇后となった何氏、継弟(義理の弟)は何苗である。孫に何晏がいる。何氏の家は元来、羊の屠殺業を営んでおり、後漢の高官としては低い出自であった。
同郡出身の宦官の郭勝の後押しがあり、異母妹が宮中に入って霊帝の貴人となったことで、何進は取り立てられた。郎中となり、虎賁中郎将を経て潁川太守に転じた。異母妹が皇后に立てられると中央に戻って侍中となり、将作大匠、河南尹を歴任した。皇后の冊立については、179年に宋皇后が廃されたのちとも、181年1月ともされ、記述が分かれる。いずれにせよ、妹の昇進とともに何進の官位は急速に上がっていった。
中平元年、184年に太平道の張角による黄巾の乱が起こると、何進は大将軍に任じられ、近衛兵を率いて首都の洛陽を守った。兵器を修繕して軍備を整え、張角の信徒で密偵の馬元義を捕らえる功績を挙げて、慎侯に封じられた。乱そのものは皇甫嵩、朱儁、盧植、董卓らの働きで鎮圧されたが、その後も各地で乱が続いた。この間、継弟の何苗など、何氏の一族も重要な地位に引き上げられた。中平5年、188年には霊帝が軍制改革を行い、西園三軍(西園八校尉)を設けた。霊帝自身が無上将軍と称し、寵愛する宦官の蹇碩を上軍校尉に据えて、司隷校尉以下を総領する権限を与えた。その対象には大将軍の何進も含まれており、何氏の権勢を抑える意図があったかとも見られている。
霊帝の後継をめぐって、劉弁と劉協が争う形になると、それぞれを支持する皇后何氏と霊帝の母の董氏とが激しく対立した。蹇碩は董重と組んで劉協を推し、中軍校尉の袁紹は何進と結んで蹇碩らに対抗した。中平6年4月、蹇碩は霊帝から劉協を後継とする遺詔を受けたという。霊帝が崩御すると、蹇碩は何進を誅殺しようと企てたが、司馬の潘隠が何進と親しく、計画を密告したため失敗した。何進は蹇碩を捕らえて処刑し、その兵権を握った。5月に劉弁が即位すると、十常侍の趙忠ら宦官の主流派は蹇碩を見捨てて何進に与し、蹇碩と董氏の一党は排除され、6月には董太后も河間に戻されて死去した。
少帝の即位後には、積もっていた不満が爆発し、宦官が世論の批判を浴びた。何進は、蹇碩に殺されかけた怒りもあって宦官の排除に乗り出し、袁紹ら幕僚に諮った。しかし、何太后や何苗が宦官を擁護したため、何氏の内部で対立が生じた。袁紹は、地方の諸将を都に呼び寄せて太后らに圧力をかけるよう勧め、盧植、陳琳、曹操らは反対したが、再三の催促を受けた何進は、これを容れた。董卓や丁原を呼び寄せ、王匡、橋瑁、鮑信、張楊、張遼、曹操に兵と兵糧を集めさせた。袁紹が大将軍の命と偽って各地に指令を出したこともあった。袁紹は宮中に軽々しく入らないよう忠告していたが、8月、何進は無警戒に参内し、宦官の段珪、畢嵐の率いる兵に囲まれ、張譲に罵倒されながら嘉徳殿の前で殺された。何進が普段から部下に親しく接していたため、部下たちは激怒して反攻し、袁術は呉匡らとともに宮中に突入、袁紹も許相らを誘い出して斬り、宦官の一派は一掃された。しかし、この混乱のなかで何苗は呉匡に殺され、何氏は大きく勢力を弱めた。少帝と陳留王を保護して都に戻したのは、上洛してきた董卓であり、権力はその手に移っていく。