HISTORICAL PERSON · 189年没

霊帝 (漢)

後漢の第12代皇帝。桓帝に男子がなく168年に擁立された。宦官の十常侍に実権を握られ、売官を行う悪政のなか黄巾の乱が起きた。熹平石経を作らせ、西園八校尉を新設したが、189年に崩御した。

生涯
189年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

霊帝は、中国後漢の第12代皇帝である。姓名は劉宏といい、章帝の玄孫にあたる。河間王劉開の曾孫で、解瀆亭侯の家に生まれた。即位する前は地方に暮らす貴族であったが、実際は貴族とは名ばかりの貧しい暮らしであったという。先帝の桓帝に男子がなかったため、同じ河間王家の出身であったことから、建寧元年(168年)に桓帝の皇后の竇氏、大将軍竇武、太尉陳蕃らにより擁立された。このとき12歳前後とされ、竇太后が摂政として政治を見た。

即位の翌年、竇武と陳蕃は宦官の排斥を計画したが、事前に露見して宦官の逆襲を受けた。陳蕃は殺され、竇武は敗れて自殺に追い込まれ、竇氏は滅ぼされた。以後は曹節や王甫らの宦官が権力を握った。169年には、霊帝は実母の董氏を皇太后に引き上げ、宦官に説かれて党人が謀反を企てているとされた結果、多数の党人が捕らえられて殺され、残る者も自由を奪われた。清流派を自称する士人たちは宦官らを濁流と呼んで抵抗したが、党錮の禁によって弾圧された。熹平元年(172年)には竇太后が死去し、宦官の中には皇后にふさわしい葬礼を行わないよう勧める者もいたが、霊帝は桓帝の陵に太后としての礼をもって葬ったという。光和2年(179年)には王甫が陽球に弾劾されて死罪となったが、曹節は反撃して陽球らを讒言で葬り、光和4年(181年)まで天寿を全うした。

この間にも羌や鮮卑といった異民族の侵攻が活発になり、天候の不順も重なって各地で反乱が起きた。張奐や段熲、皇甫規らの将軍が鎮圧に奔走したが、霊帝自身は宮殿内で商人のまねをし、酒と女に溺れて朝政に関心を示さなかったとされる。政治の実権は張譲や趙忠ら十常侍と呼ばれる宦官に握られていった。一方で学問は重んじ、熹平4年(175年)には群臣の勧めで儒学の経典を正す熹平石経を作らせ、177年には書画に優れた者を集めて鴻都門学を興した。蔡邕は鴻都門学を批判して諫言したが、霊帝は聞き入れなかった。

光和7年(184年)、張角を首領とする黄巾の乱が起こった。何進、皇甫嵩、朱儁、盧植、董卓ら地方豪族の協力と張角の急死により鎮圧されたものの、正規軍の無力化が露呈し、地方豪族が台頭する結果となった。その後も霊帝は売官を行い、賄賂が横行して「銅臭」と呼ばれる悪政になったといわれ、官職を買った者の苛斂誅求で民力は疲弊した。ただし売官は、単なる私的な蓄財ではなく、常備軍構想の財源や光武帝の時代に縮小された帝室財政を回復して皇帝の権威を取り戻す政策だったとする説もある。皇后の宋氏を廃して何氏を立て、その兄の何進を大将軍としたが、何進は袁紹に支持されて十常侍との対立を深め、何皇后も霊帝の実母の董太后と対立した。

中平5年(188年)、霊帝は自ら無上将軍を称し、皇帝直轄の西園八校尉を新設して、宦官の蹇碩に何進・袁紹・曹操らを統率させた。劉焉の勧めで州牧制も復活させている。翌中平6年(189年)、国が乱れるなかで崩御した。後継者を明確に定めていなかったため、実子の劉弁と劉協の間で皇位継承争いが起こった。劉協は後の献帝である。西園八校尉は1万人規模の近衛軍とも考えられ、のちに曹操がこの編成を引き継いで魏の国軍の根幹としたとされるが、創設の途上で霊帝は没し、後漢のうちに完成を見ることはなかった。後世、桓帝と並んで暗愚な皇帝の代名詞とされたが、蓋勲のように奸臣に惑わされているだけだと評した者もいる。

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