HISTORICAL PERSON · 190年没

少帝弁

後漢の第13代皇帝。霊帝と何皇后の子で、母と伯父の何進に擁立されて13歳で即位したが、在位は4か月余りだった。何進の死後、洛陽を占拠した董卓に廃位されて弘農王となり、李儒に毒殺された。

生涯
190年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(河南省 / 洛陽市)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

少帝弁は、中国後漢の第13代皇帝である。名は劉弁(辯)といい、霊帝と何皇后の子で、176年の生まれ、190年に没した。母の何太后と、母方の伯父で何太后の異母兄にあたる何進によって擁立され、幼くして即位したが、在位はわずか4か月余りであった。

霊帝と貴人何氏との間に生まれた。霊帝の子供の多くは早世したため、幼いころから宮外で育てられ、道士の史子眇の養子になって史侯と呼ばれた。当時の迷信により、近親者ではなく身分の低い者に預けると悪霊を遠ざけられると考えられたためともいわれる。異母弟の協、のちの献帝は、祖母の董太后に育てられた。母の何氏は霊帝に寵愛され、180年に皇后に立てられて、その親族も外戚として重用された。しかし霊帝は、暗愚な弁よりも次男の協を高く評価していたとされ、弁は嫡出の長男でありながら、霊帝の在位中に皇太子として認められなかった。その理由ははっきりせず、これが後の悲劇を招いた。

189年に霊帝が崩御すると、霊帝が信任していた宦官の蹇碩は、何進を殺して協を立てようとして、会合で罠を仕掛けた。何進はこの陰謀に気づいて弁が新帝であると宣言し、妹の何皇后は皇太后となった。何太后と何進は朝廷で最も有力な存在となったが、宦官の勢力は依然として強かった。蹇碩は趙忠ら他の宦官にも同調を求めたが、何氏に近い宦官の郭勝に説得された趙忠らはこれを退けた。何進は袁紹、袁術らと謀って蹇碩を捕らえて処刑し、その指揮下の軍を掌握した。これに対し、霊帝の母の董太后と甥の董重の一派は何氏の権力掌握を快く思わず、董太后はしばしば何太后と争った。何進の手で董重は捕らえられて自殺し、董太后もその後まもなく世を去った。恐怖のため死んだとする記録が多いが、自殺したとする説もある。蹇碩の死後、董太后は何太后を脅して、董重に何進を斬らせると言ったこともあったという。この出来事で何氏一族は民衆の人気を大きく失った。

秋になると、袁紹は宦官を物理的に排除するよう何進に勧めたが、何太后は受け入れず、何苗や母の舞陽君らも反対した。孤立した何進は、地方の将軍たちを都に呼び寄せて宦官の排除を迫る策に出て、涼州で反乱軍と戦ってきた董卓にも声をかけた。しかし、何進が中常侍の張譲らに暗殺され、さらに宦官が袁紹によって皆殺しにされたあと、洛陽を占拠した董卓によって、弁は廃位されて弘農王に封ぜられた。その後、董卓の専制に反発する諸侯が反董卓連合軍を結成すると、連合軍に擁立されることを恐れた董卓の命を受けた李儒により、長安遷都の前に毒殺されたとされる。

地方豪族の一人にすぎなかった董卓に帝位を廃されたことは、事実上、後漢王朝が滅んだことを意味するといわれる。のちに弘農懐王の諡号を贈られたため、実質的には皇帝と認められなかった。明代の『三才図会』にある後漢王室の系図にも、その名は省かれている。曹操が弁の墓前を通ったとき、皇帝陵として参拝すべきか董遇に尋ねると、董遇は皇帝とは見なされないので参拝は不要と答え、曹操はそれに従ったという。小説『三国志演義』では、弁は暗愚な少年として描かれ、廃位後に何太后とともに李儒によって高所から突き落とされて殺される。ただし即位時の13歳という年齢は、後漢の歴代皇帝のなかで4番目に高かった。妻の唐姫は、弁の死後に李傕から妻になるよう迫られたが拒み、のちに献帝により弘農王妃に封ぜられた。

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