伝記
曹彰は、中国の後漢末期から三国時代の魏の皇族で武将である。字は子文。曹操の四男で、卞氏の子としては次男にあたり、同母兄に曹丕、同母弟に曹植、曹熊らがいる。妻は孫賁の娘で、子に曹楷と娘一人がおり、孫に曹温、曹悌らがいる。189年または190年ごろの生まれとされ、223年8月1日(黄初4年6月17日)に没した。諡は威王。曹章とも表記される。
若いころから弓術と馬術に優れ、人並み外れた腕力を持ち、猛獣と素手で格闘できたといい、険しい場所も平気だった。曹操の征伐に従い、激しい気性を見せた。曹操は学問が足りないとしてその気性を戒めようとし、学問を課したが、曹彰は側近に、衛青や霍去病を目標にしており博士になりたいのではないと漏らしたという。曹操が子供たちに志を尋ねたときも、将軍として先陣を切り、信賞必罰を旨とすると答え、曹操は大笑いした。父が魏王に封じられると鄢陵侯となり、田豫がその相についた。
代郡では、裴潜が去ったあとの後任の統治が誤り、烏桓が反乱を起こした。曹彰は北中郎将・行驍騎将軍となり、田豫とともに、歩兵千人と数百の騎兵を率いて討伐に向かった。出発に際して曹操から法を守るよう戒められ、兄の曹丕からも曹仁を手本とするよう手紙で忠告された。曹操は、家では父子だが任務を受ければ上官と部下であり、過ちがあれば法を厳正に適用すると告げたとされる。涿郡との境で烏桓と遭遇すると、敵に数で劣る中で要所を守り、田豫の計略を用いて撃破し、逃げる敵を半日以上追って戦い続けた。放った矢は必ず当たって敵を倒したが、自らの鎧にも数本の矢が刺さった。疲れた部下たちが、代郡を越えて追うのは曹操の指示に反すると主張しても、曹彰は、今が勝利の好機であり、指示に従って敵を放置するのは良将ではないとして追撃を続け、敵を大破した。将兵には通常の倍の恩賞を与え、喜ばない者はなかった。鮮卑の軻比能は数万の騎兵を率いて形勢をうかがっていたが、曹彰がすべての敵を破ったのを見て、曹操に服従することを決めたという。
その後、曹彰は長安の曹操に呼ばれた。鄴を通ったとき、曹丕から、功績を自慢せず控えめに応じるよう助言され、そのとおりに振る舞うと、曹操は曹彰の鬚を手に取って「黄鬚」と呼び、その成長を喜んだ。黄鬚とは、虎髭を生やしたような勇者を指す称号である。漢中の戦いに向かう途中で戦況が不利と知ると、曹操から越騎将軍に任じられ、長安の守りを任されたともいう。東晋の王嘉の逸話集には、曹彰が南越の白象を自ら手なずけ、孫権を通じて送られたものだと語って聴衆を驚かせたとも記される。
曹操の臨終のとき、曹彰は長安に駐屯していて、早馬で呼び寄せられたが死に目に会えなかった。洛陽に着いた曹彰は、曹操の死後を取り仕切っていた賈逵に璽綬の在処を尋ねたが、貴方の尋ねるべきことではないと反論された。曹丕は即位すると、帝位を争われることを恐れて兄弟たちを各自の封国へ帰らせた。曹彰は222年に任城王に封じられたが、優れた武勇を警戒されて冷遇されるようになった。223年、30代前半の若さで洛陽にて急死し、威王と諡された。病死とされるが、毒殺されたともいわれ、曹丕が囲碁の席で毒入りの棗を食べさせたという逸話も伝わる。ただしこれは史実ではない伝説とされる。許昌市鄢陵県には曹彰の墓とされる塚があり、「曹操之子、曹彰之霊」と刻まれた石碑が残る。