伝記
公孫瓚は、後漢末期の武将で、建安4年3月(199年4月)に没した。字は伯圭、または伯珪。幽州遼西郡令支県(現在の河北省秦皇島市昌黎県)の出身である。後漢末の動乱で有力な将軍として頭角を現し、群雄として割拠した。河北の支配をめぐって袁紹と争ったが、劉虞を殺害するなどして人心を失い、最後は袁紹に敗れて自害した。
先祖代々二千石の官に就いた有力豪族の子に生まれたが、生母の身分が低かったため、あまり厚遇されなかった。若くして遼西郡の門下書佐となり、弁舌も巧みだったという。太守の侯氏に見込まれてその娘婿となり、侯氏の援助で涿郡の盧植のもとで経書と兵学を学んだ。このときの学友に、数歳年下の劉備がいる。太守の劉氏が法に触れて連行されたときには、危険を冒して随行した。のちに孝廉に推挙されて郎となり、遼東属国長史となった。辺境の砦を巡察中に数百騎の鮮卑の一団に出会うと、自ら突撃して半数の手勢を失いながらも撃退し、鮮卑が国境を侵すことは稀になったという。その後、涿県の県令となった。
中平3年(186年)、朝廷が幽州の突騎3,000人を援軍に出すと、公孫瓚は都督行事の割符を与えられて指揮を任された。この人選に不満を持った元中山太守の張純が、張挙や烏桓の丘力居らと反乱を起こし、右北平郡と遼西郡を荒らした。勢力は10万近くに及んだとされる。公孫瓚はこれを攻めて撃ち破り、騎都尉となり、石門でも反乱軍を破って捕らわれていた人々を救ったが、長城を越えて深追いして包囲され、食糧が尽きて両軍とも退いた。朝廷は中平5年(188年)に劉虞を幽州牧に任じ、劉虞は徳と人望によって丘力居を帰順させた。公孫瓚は功績を奪われることを恐れて交渉を妨げ、ここから両者の対立が始まった。のちに董卓の推挙で奮武将軍・薊侯に封じられている。異民族に懐柔策をとる劉虞に対し、公孫瓚は服従しない者は討つべきだと考え、劉虞が鮮卑族に与えた恩賞をたびたび略奪したという。
初平2年(191年)には、渤海郡の境から侵入した黄巾賊の残党30万を2万の兵で迎え撃ち、東光の南で大破した。一方、従弟の公孫越が袁術の指示で孫堅とともに袁紹方の周昂を攻めて戦死すると、激怒して磐河まで出兵した。袁紹は従弟の公孫範を渤海太守にして講和を図ったが、公孫範は郡兵を得て公孫瓚に加わった。公孫瓚は田楷らを各州の刺史に勝手に任命した。界橋の戦いでは麴義の奮戦で大敗したものの、その後は巨馬水で袁紹軍を破るなど勢いを盛り返し、2年余りの長期戦となったが、最後は敗れて薊へ逃げ帰った。
やがて劉虞が数万の大軍を集めて攻めてきたが、幕僚の公孫紀が作戦を漏らしたため、公孫瓚は精鋭騎兵数百で奇襲して打ち破り、居庸まで追って劉虞を捕らえた。さらに朝廷の使者の段訓を脅して、劉虞が皇帝を僭称しようとしたと誣告し、劉虞を一族もろとも処刑した。公孫瓚は驕り高ぶり、他人の過ちを覚えて善行を忘れたため、多くの者が害された。劉虞の旧臣の鮮于輔らは烏桓・鮮卑と手を組み、袁紹も劉虞の子の劉和を擁立して麴義に支援させた。公孫瓚は鮑丘の戦いで敗れ、易京城に籠城した。城は10年分の兵糧と幾重もの城壁を備えた堅城で、1年余りの対峙の末には撤退する麴義と劉和の軍を追撃して大破した。しかし袁紹に降伏を勧められても返事をせず、別将を救援しない方針をとったため、国境の別営は自壊するか袁紹軍に破られた。公孫瓚は公孫続との内外呼応の策を立てたが、密使が捕らえられて漏れ、出撃して伏兵に惨敗した。袁紹は地下道を掘って楼閣を突き崩し、公孫瓚は居城に火を放って自害した。
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