伝記
袁術は、後漢末期の武将・政治家で、字は公路。永寿元年(155年)に生まれ、建安4年(199年)6月に没した。豫州汝南郡汝陽県の人で、父は司空の袁逢、叔父は太傅の袁隗にあたり、袁紹とは従兄(異母兄ともいう)の関係にある。董卓による動乱のなかで群雄の一人となり、のちに皇帝を称して国号を「仲」としたが、数年で瓦解し、失意のうちに世を去った。
青年期は侠人として知られ、仲間と放蕩な生活を送ったが、のちに改心したという。同族の袁紹が自分より声望が高いことを妬み、その出自の低さをたびたび持ち出して中傷した。孝廉に推挙されて郎中となり、河南尹、折衝校尉、虎賁中郎将と官を進めた。中平6年(189年)に霊帝が崩じると、何進の宦官皆殺しの計画に袁紹や曹操とともに加わり、何進が十常侍に殺されると、袁隗や袁紹とともに宮中へ乱入して宦官数千人を誅殺した。董卓が入京すると後将軍に任じられたが、害が及ぶのを恐れて荊州の南陽へ逃れた。そこへ反董卓の兵を挙げた長沙太守の孫堅が北上し、南陽太守を殺していたため、袁術は後任として南陽郡を支配し、孫堅を影響下においた。孫堅を豫州刺史として董卓を攻めさせ、初平2年(191年)には陽人の戦いで董卓軍を破り、洛陽を占領する戦果を得た。南陽は人口が多く豊かな地だったが、袁術が奢侈な生活を求めて過酷な徴税をしたため、民衆は苦しんだという。
やがて袁紹との対立が深まった。袁術が荊州牧の劉表と不仲になると、袁紹に一族を殺された恨みを持つ公孫瓚と手を結び、袁紹は対抗して劉表を味方に取り込んだ。孫堅に劉表の攻略を命じたが失敗して孫堅は敗死し、初平4年(193年)には自ら兗州の匡亭に出て曹操を攻めたものの、曹操・袁紹・劉表の連合軍に大敗した。南陽を捨てて揚州へ逃れ、刺史の陳温の死後の混乱につけこんで揚州を奪い、寿春を拠点とした。その後は孫堅の遺児の孫策を寵愛して軍勢を任せたが、孫策は劉勲が重用されたことなどに反感を抱き、のちに離反したとされる。徐州では劉備を攻め、呂布に兵糧の提供を持ちかけて劉備の背後を突かせ、下邳は呂布の手に落ちた。
興平2年(195年)、献帝が長安を脱出して曹陽で大敗したと聞くと、袁術は漢の命脈が尽きたと感じ、帝位につく意思を側近に漏らしたが、押しとどめられた。建安2年(197年)正月、張炯の進言を採用し、寿春を都、国号を「仲」として皇帝に即位した。しかし大半の諸侯には認められず、重税と奢侈によって兵士も領民も飢えて困窮し、家臣の離反が相次いだ。孫策も諫める書簡を送ったが容れられず、離反した。呂布に婚姻を持ちかけたが断られ、呂布は使者の韓胤を曹操に引き渡して処刑させた。怒った袁術は呂布を攻めたが、楊奉・韓暹の裏切りで大敗した。さらに自ら出た曹操に敗れ、橋蕤ら4人の将軍を討ち取られて勢力は大いに衰えた。建安3年(198年)に呂布と再び同盟したが、呂布が下邳で包囲されたときも、以前の背信を思い出して援軍を送らなかった。
勢力が衰えた袁術は袁紹に手紙を送り、自らの帝位を譲って庇護を求めようとしたが、曹操が劉備らを徐州に派遣して阻んだ。建安4年(199年)6月に病死し、享年は45歳とされる。灊山の雷薄・陳蘭を頼って拒まれ、江亭に滞在したが、食糧は麦のくずが30石ほどしかなく、蜂蜜入りの飲物も得られなかった。寝台に腰を下ろして「この袁術ともあろう者がこのざまか」と叫び、一斗余りの血を吐いて死んだという。袁術の妻子らは劉勲のもとに身を寄せ、孫策が劉勲を破るとその保護を受けた。娘はのちに孫権の側室となり、息子の袁燿も呉に仕えて郎中になった。
同じ年に亡くなった人物
- Antonius Diogenes (199年(推定))
- 高順 (199年没)
- 公孫瓚 (199年没)
- Adrastus of Aphrodisias (199年(推定))
- ウィクトル1世 (ローマ教皇) (199年没)