HISTORICAL PERSON · 199年没

陳宮

後漢末の武将。初め曹操に仕えて兗州の確保を進言したが、のち張邈らと反乱を企てて呂布を盟主に迎えた。建安3年、下邳で部下の反乱により捕らえられ、呂布らとともに曹操に処刑された。

生涯
199年没
死亡地
—
出生地
魏州
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

陳宮(ちんきゅう)は、後漢末期の武将で、字は公台。兗州東郡東武陽県の人である。生年は不明で、建安3年12月24日(199年2月7日)に没した。勇敢で信念を曲げない人柄で、地元の顔役として若いころから天下の英雄や高名な学者と交友を結び、自分を高めたという。天下が動乱の時代に入ると、まず曹操に仕えた。初平3年(192年)、兗州刺史の劉岱が黄巾軍に敗れて戦死すると、陳宮は「覇王の業」のために兗州を傘下に収めるよう曹操に進言した。曹操の同意を得ると、先に兗州へ赴いて別駕や治中らを説得して回り、済北の相の鮑信らも賛同したため、曹操は兗州牧として迎えられた。これは曹操が台頭する土台になったとされる。

ところが興平元年(194年)、曹操が徐州の陶謙を攻めて東郡の守備を陳宮に任せると、その隙をついて陳宮は叛逆を企てた。陳留太守の張邈、その弟の張超、王楷、許汜らと謀り、呂布を盟主に迎えたのである。張邈の動機は、曹操が袁紹と結んで自分を攻めるのではという不安だったとされるが、陳宮本人については曹操への疑いを抱いたとあるだけで、詳しいことは分からない。兗州の郡県の大半は反乱側につき、曹操に味方したのは鄄城・范・東阿の3城だけで、荀彧・程昱・夏侯惇らが守り抜いた。陳宮は自ら軍を率いて東阿を攻めたが、程昱が倉亭津の渡しを断ったため行軍が遅れ、東阿の備えが固まって攻撃は失敗した。翌年、曹操が兗州に戻ると、陳宮は呂布に従って東緡で戦ったが伏兵に敗れ、呂布とともに兗州を逃れて徐州の劉備を頼った。

建安元年(196年)、呂布は劉備を追い出して徐州を手に入れたが、まもなく配下の郝萌が反乱を起こした。高順が鎮圧したのち、曹性が「黒幕は袁術と陳宮」と呂布に述べたため、陳宮は顔を赤らめた。それでも呂布は、陳宮が大将であることを理由に不問とした。建安3年(198年)冬、曹操が彭城まで攻め寄せると、陳宮はただちに迎え撃つよう進言したが、呂布は下邳まで来るのを待つとして容れなかった。出撃した呂布は敗れて成廉を捕らえられ、下邳城に追い込まれた。曹操の勧告もあって降伏しようとした呂布を、陳宮は止めた。かつて曹操に背いた深い罪を自覚していたためで、『献帝春秋』によれば「曹操に降伏するのは、石に向けて卵を投げるようなものです」と諫めたという。その後も献策は採られず、同年末、呂布の縁戚の魏続・侯成・宋憲らが陳宮を捕らえて曹操に寝返り、呂布も戦意を失って降伏した。

引き出された陳宮に、曹操が「そなたのような知恵者が、なぜこのようなことになったのか」と問うと、陳宮は呂布を指し、この男が私の言うことを聞かなかったからだと答えた。老いた母や家族をどうするのかと問われると、天下を治める者は人の親を殺したり祭祀を絶やしたりしないと聞く、母や家族の生殺与奪は貴公の手中にあり私にはどうにもできない、と述べた。曹操は涙ながらに刑場へ向かう陳宮を見送ったが、陳宮は振り向かなかったという。呂布や高順らとともに絞殺され、首は許の市にさらされた。曹操は陳宮の老母ら家族を引き取って厚遇し、娘が嫁ぐまで面倒を見た。

『三国志演義』の陳宮は中牟県の県令として登場し、董卓の暗殺に失敗した曹操を捕らえながら、その志に感服して行動をともにする。しかし呂伯奢の一家を曹操が殺すのを見て呆れ、一人去ったとされるなど、史実とは異なる姿で描かれる。史実の陳宮の行動には不明な点が多く、創作では知謀に長けた策士という像を基調に様々に描かれている。

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