伝記
ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトルは、1905年6月21日にパリの16区で生まれたフランスの哲学者、小説家、劇作家で、フランス実存主義を代表する人物である。生後15か月のとき、海軍将校だった父が熱病で亡くなり、母方の祖父でドイツ系フランス人のシャルル・シュヴァイツァーのムードンの家に引き取られた。祖父はドイツ語の教授で深い教養を備えており、サルトルの学問的な探究心は大いに刺激された。3歳のときには右目をほぼ失明し、強度の斜視として暮らすことになった。1915年にパリの名門リセであるアンリ4世校に登録し、のちに作家となるポール・ニザンと知り合った。母の再婚にともない1917年にラ・ロシェルのリセに転校したが、うまく溶け込めず、後に挫折の年月と述懐している。母の金を盗んで祖父から見放されたことや、少女を口説こうとして失敗し、自身の醜さを自覚したことも、この時期の話として知られる。1920年に再びアンリ4世校に戻り、ニザンと再会した。
1924年、高等師範学校に入学し、モーリス・メルロ=ポンティと知り合った。1928年に哲学のアグレガシオン(1級教員資格)試験に落第して周囲を驚かせたが、翌年に首席で合格した。このころ、同じ試験の次席だったシモーヌ・ド・ボーヴォワールと知り合い、1929年に2年間の契約結婚を結んだ。結婚関係を維持しつつ互いの自由恋愛を保障する前衛的なもので、幾度かの波乱を経ながら、サルトルが亡くなるまで50年以上続いた。1931年にル・アーヴルのリセの哲学教師となり、1933年から1934年にかけてはベルリンに留学して現象学を学んだ。1935年には想像力についての実験として、友人の医師にメスカリンを注射され、全身をカニやタコが這いまわる幻覚に襲われた。以後半年以上、幻覚を伴う鬱症状に悩まされ、甲殻類への恐怖は生涯続いたという。
1938年に小説『嘔吐』を出版して名声を博した。第二次世界大戦で召集され、1940年に捕虜となったが、1941年に偽の身体障害証明書で収容所から釈放された。1943年に主著『存在と無』を出版し、フッサールの現象学とハイデッガーの存在論の影響が色濃いものだった。同年6月、戯曲『蠅』の初演で、アルベール・カミュと初めて出会い、二人はすぐに親しくなった。戦前は政治に関わらないリベラルな知識人だったが、戦争と捕虜生活を経て政治的な関心を強め、1945年10月にボーヴォワールやメルロ=ポンティらと雑誌『レ・タン・モデルヌ』を創刊した。評論、小説、劇作を通じて、戦後、その実存主義は世界中を席巻し、とりわけフランスで絶大な影響力を持った。
1948年には、短命に終わった政党「革命的民主連合」の結成に尽力した。アルジェリア戦争では民族解放戦線を支持し、キューバ革命後のキューバの革命政権も支持した。ソ連の立場を概ね支持しながら、共産党には入党せず、1956年のハンガリー侵攻や1968年のプラハの春への軍事介入には批判の声を上げた。1952年、カミュの『反抗的人間』をめぐる論争で、サルトルは「アルベール・カミュに答える」を書き、二人は完全に決裂した。1973年には、それまで読み書きに使っていた左目を失明した。自らの意志でノーベル賞を辞退した最初の人物であり、1980年4月15日に没した。
同じ年に亡くなった人物
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