HISTORICAL PERSON · 208年没

ヴォロガセス5世

パルティア王。単独王として事実上最後の王となり、ローマ内乱に乗じてシリアへ侵攻するも皇帝セウェルスの反攻でクテシフォンを占領された。

生涯
208年没
死亡地
Parthia Satrapy
出生地
Parthia Satrapy
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ヴォロガセス5世は、アルサケス朝パルティアの王である。在位は191年から208年とされ、単独の王としては事実上最後のパルティア王となった。生年は不明で、130年生まれとする説もあり、没年は208年とされるが、207年とする記述もある。ヴォロガセス4世の子で、アルメニアの王ヴォロガセス2世として180年ごろから191年まで統治したのち、パルティア王位に就いたとされる。

アルメニアの王位は、この時代には大王(パルティア王)の近親者が占めるのが通例であった。ヴォロガセスは自分の子孫にその座を継がせることに成功し、その系統は428年にサーサーン朝がアルメニアの王位を廃するまで国を治めたとされる。189年には、母がイベリア(現在のジョージア東部)の王アマザスプ2世の妹である子レウ1世を、イベリアの王位に就けた。パルティア王位を得ると、アルメニアは子のホスロー1世に引き継がれた。イベリア王の娘との間にヴォロガセス6世、アルタバヌス4世、ホスロー1世の3人の子をもうけたとも伝えられる。191年に父が没したとき、王位をめぐる経緯は明らかでない。平和な継承であったのか、内戦によったのかも定かでない。メディアでは、すでにオスロエス2世が王位を主張していたが、ヴォロガセスはこれを速やかに破り、単独の王となった。

193年ごろ、ローマ皇帝コンモドゥスが暗殺され、後継のペルティナクスもわずか3か月で暗殺されて、ローマでは皇帝が乱立する内乱となった。ヴォロガセスはその一人であるニゲルを支持し、ローマ領シリアとアナトリア東部に侵入した。内乱を制したのはセプティミウス・セウェルスで、ニゲルを討つためアナトリアへ向かい、ニシビスで対したパルティア軍は敗れて撤退した。セウェルスが195年にパルティアへ攻め込んだともいう。196年、セウェルスがガリアの反乱鎮圧に西へ向かうと反撃に転じたが、従属王国アディアベネの王ナルセスが反乱を起こしたため、これを攻めて殺した。

197年にセウェルスが前線に戻り、パルティア領内に侵入すると、ヴォロガセスは兵をまとめて首都クテシフォンまで退いたが劣勢で、さらに退却したため、クテシフォンは198年にローマに占領された(199年とする記述もある)。セウェルスは「パルティア大勝者」を称したものの、補給や増援の不足から占領を保てず、撤退した。補給部隊を叩かれたことも撤退の一因とされる。撤退中に、アラブ人の城塞ハトラの攻略を試みたが、成功しなかった。202年には平和が戻り、ローマのアルメニアと北メソポタミアへの支配が確認されたとされる。この戦いはアルサケス朝の威信を大きく損ない、歴史家は、このころが王朝の転換点であったと評している。

そのころ、パルティアの従属王国でも最大のペルシスでは、パーパクが反乱を起こし、元の君主を倒して都市イスタフルを手に入れたと伝えられる。208年ごろにはパーパクが王位に就いて反乱が起きたともされ、ヴォロガセスはこれを鎮圧したが、パーパクの廃位には至らず、ペルシスは再びパルティアの宗主権下に収まった。しかし、この年が後のサーサーン朝の紀元年とされることになった。パーパクの子アルダシール1世は征服を続け、224年にパルティアを倒してサーサーン朝を築いた。ヴォロガセスは208年に没し、息子のヴォロガセス6世とアルタバヌス4世が王位継承をめぐって激しく争うことになった。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物

該当人物はまだありません。