伝記
龐統は、後漢末期の武将・政治家である。179年に生まれ、214年に没した。字は士元、道号は鳳雛で、荊州南郡襄陽県の出身である。諡は靖侯。孫権と劉備に仕えた。「臥龍」と呼ばれた諸葛亮に対して「鳳雛」と称された。弟に龐林、子に龐宏がおり、従父に龐徳公、族兄に龐山民(妻は諸葛亮の姉)らがいる。
若いころは口下手で身なりもさえず、評判を得られなかった。人物鑑定で名高い司馬徽にその才能を認められて、ようやく名が高まった。同じく鑑定に優れた傅巽に会ったときは、半ば英雄だと高く評価されたという。郡の功曹となり、のちに周瑜の功曹も務めた。周瑜が荊州を攻略して南郡太守に任じられると、南郡の功曹になった。蜀の攻略に向かう途中、巴丘で周瑜が病没すると、龐統は遺骸を送って江東へ行った。その際、呉の陸績・顧邵・全琮らと親しく交わり、見送りに来た陸績と顧邵からは「天下が太平になったら、また四海の士を批評しましょう」と言われた。孫権が荊州を劉備に割譲したのち、龐統は劉備のもとに移った。しかし耒陽県令を任されながら仕事を滞らせ、罷免された。これを聞いた孫権側の魯粛は、劉備への手紙で「龐統は大役を与えてこその人物」と薦め、諸葛亮も取りなした。劉備は龐統と充分に語り合ってその有能さを評価し、治中従事に任じ、さらに諸葛亮と同じ軍師中郎将とした。
当時、劉備の陣営では西の益州を取ることが考えられていた。益州の劉璋は張松の説得を受け、法正を使者に立てて曹操との関係を絶ち、張魯との戦いへの援軍を劉備に求めてきた。法正と張松は劉璋を見限っており、この機に益州を奪うよう進言した。劉備は難色を示したが、龐統が諫めて決心させた。龐統は、無理な手段で奪っても、正しい方法で治め、道義をもって報い、事が定まったのちに大国を与えれば信義に背かないと語った。入蜀には龐統が同行し、諸葛亮は荊州の留守を守った。益州に入ると、劉璋は劉備の本心を知らず、歓迎の宴を開くなど無防備だった。龐統は劉璋を捕らえるよう進言したが、劉備は、他国に入ったばかりで恩愛も信義も現れていないとして聞き入れなかった。その後、劉備軍は張魯と対峙するふりをして駐屯した。龐統は、成都を昼夜兼行で強襲する上計、関所を守る将を欺いて兵を奪い成都を目指す中計、白帝城まで退く下計の三計を示し、劉備は中計を採った。劉備は曹操と孫権の戦いの援軍を求められたことを口実に、楊懐と高沛を呼び出して斬り、白水関を占領して成都へ進んだ。
涪での宴会で、酔った劉備が「今日の酒席は実に愉快である」と言うと、龐統は「他国を討伐中に上機嫌に酔うのは仁君らしからぬ行いです」と言った。劉備は怒り、周の武王の例を挙げて退出を命じた。龐統は出て行ったが、劉備はすぐ後悔して呼び戻した。龐統は陳謝せずに飲み食いを続け、誰が間違っていたかを問われると「君臣ともにまちがっておりました」と答えた。劉備は大笑いし、酒宴は元の楽しさに戻った。
劉備軍は雒城を包囲したが、その最中に龐統は流れ矢に当たって死去した。享年36。劉備は深く悲しんだ。のちに関内侯を追封され、260年9月には靖侯の諡号を贈られた。龐統は人物評価を好み、いつも過大に評価した。理由を問われると、乱れた世で善人を増やすには、褒め過ぎるくらいの評価で志ある者に希望を与えるのがよいと答えた。陳寿は、経学と策謀にすぐれ荊・楚の人士に才能を謳われたと評し、魏臣では荀彧の兄弟にあたるとした。