伝記
鍾会は、中国三国時代の魏の武将・政治家・学者で、字を士季という。豫州潁川郡長社県、現在の河南省許昌市長葛市の人である。父は鍾繇、母は張昌蒲、異母兄に鍾毓がいる。司馬昭の右腕として活躍し、蜀漢平定に大功を立てたが、その地で反乱を企てて敗死した。
幼いころから賢く早熟で、5歳のとき、瞳を見れば人の価値がわかると唱えていた蔣済に瞳を見られ、並外れた人間と評された。母の張昌蒲は謹厳で教育熱心で、4歳で『孝経』を教え、その後も『論語』『詩経』『尚書』『春秋左氏伝』『易』などを学ばせて暗唱させた。15歳で太学に入れ、自ら進んで学ぶよう説いた。鍾会は夜を日に継いで勉強し、20歳のころには王弼と並ぶ評判を得た。正始年間に秘書郎となり、247年に尚書郎に任じられた。249年の高平陵の変では、中書郎として皇帝曹芳に随行していた。254年に曹髦が即位すると関内侯に封じられた。司馬師に曹髦がどのような君主かと問われると、才能は曹植、武勇は曹操に匹敵すると答えている。
255年の毌丘倹・文欽の乱では司馬師に随行して密謀を担当した。司馬師が死去すると、曹髦は弟の司馬昭の兵権を削ごうとして許昌に留め、傅嘏に軍を率いて帰還するよう命じたが、鍾会は傅嘏と相談してこれを拒み、司馬昭を奉じて洛陽に帰った。司馬昭が後を継ぐと、黄門侍郎・東武亭侯に任じられた。257年、諸葛誕が召還に従わないと予測して司馬昭に反対したが容れられず、果たして諸葛誕が反乱を起こすと討伐軍に随行した。呉からの救援軍の全懌らが寿春城にこもる中、同族の全輝・全儀兄弟が魏に帰順すると、鍾会はこれを利用して、処刑を恐れて帰順したと全懌らに伝える文書を作らせ、全懌らを降伏させた。当時の人々は鍾会を張良になぞらえた。260年に司隷校尉となり、中央を離れても賞罰や政治の改革を取り仕切った。名声高い在野の嵆康を訪ねたとき、嵆康は挨拶をしなかった。「何を聞いて訪れ、何を見て去る」と問われ、鍾会は「聞くことがあって訪れ、見たことがあって去る」と答えて立ち去った。これで嵆康は恨まれ、のち呂安を弁護する証人として出廷すると、鍾会が司馬昭に二人を除くよう勧め、嵆康と呂安は処刑された。
鍾会は司馬昭とともに蜀漢の制圧が可能と考え、地形や情勢を調べていた。262年に鎮西将軍・都督関中諸軍事に任じられ、263年5月に鄧艾・諸葛緒とともに蜀漢征伐を命じられ、8月に出立した。先発の許儀が整えた橋で馬の脚が落ち込むと、許褚の子で王室に功のある許儀を処刑し、将兵は恐れた。諸葛緒の軍を告発して吸収し、剣閣で姜維と対峙する間に、11月、鄧艾が成都に迫って劉禅が降伏した。鍾会は略奪を許さず蜀の官僚を受け入れ、親密になった姜維を高く評した。しかし鄧艾の書状を偽作して疑心を煽り、謀反の疑いで逮捕させ、その軍勢を握った。司馬昭が大軍で迫ると知ると、264年正月16日、郭皇太后の遺詔を偽作して成都でクーデターを宣言し、魏・蜀の官吏を幽閉した。幽閉された胡烈が子の胡淵に偽りの知らせを送り、18日に胡淵らが決起して、鍾会は姜維や数百人の将兵とともに殺された。享年40。
『三国志』の編者陳寿は、鍾会を精練された策略家としつつ、大きな野心から事変を起こして一族を滅ぼしたと評した。友人の傅嘏は、野心が器量より大きいと忠告していたという。出征の際、邵悌が別の人物を行かせるよう諫めても、司馬昭は鍾会に異心があっても何ができようかと取り合わなかった。