HISTORICAL PERSON · 217年没

魯粛

後漢末の武将・政治家で、袁術に見切りをつけ、周瑜の推挙で孫権に仕えた。孫権に江東割拠を説き、赤壁の戦いでは降伏論が多い中で主戦論を唱えた。劉備と同盟を結んで曹操に対抗する孫劉同盟を担った。

生涯
217年没
死亡地
中華人民共和国(甘粛省 / 中国)
出生地
中国
出典
世界地図
中華人民共和国(甘粛省)

伝記

魯粛は、後漢末期の武将・政治家で、字は子敬という。徐州下邳国東城県(現在の安徽省定遠県南東部)の出身で、袁術、孫策、孫権に仕えた。赤壁の戦いでは降伏論が強いなかで主戦論を唱え、周瑜や孫権とともに開戦を主張した人物である。

生まれてすぐに父を亡くし、祖母と暮らした。裕福な豪族の家に生まれたが、施しを盛んに行い、家業を顧みず財産を投げ出して困っている人を助け、地方の名士と交わりを結んだ。体格が立派で、壮士の節義を持ち、奇計を好んだ。乱世が深まるにつれて撃剣や騎射を習い、私兵を集めて狩猟をし、兵法や軍事訓練にも力を入れたため、郷里の人々には理解されず、村の長老に「魯家に気違いの子が生まれた」とまで言われたという。居巣県長だった周瑜が援助を求めて訪れると、魯粛は2つある倉の片方をそっくり与えた。周瑜はその非凡さを認め、二人は親交を深めた。のちに袁術に請われて東城県長となったが、袁術の支離滅裂な行状に見切りをつけ、一族や若い遊侠を含む郎党を連れて周瑜を頼った。周瑜とともに長江を渡り、孫策に目通りして尊重されたという。

祖母が亡くなると柩を守って東城に戻り、葬儀を営んだ。そこへ友人の劉曄から、巣湖に拠って1万の兵を集めた鄭宝のもとへ行くよう勧める手紙が届き、魯粛は賛同して北へ戻ろうとした。しかし孫策はすでに没して孫権が跡を継いでおり、周瑜は魯粛の母を呉に移していた。周瑜は孫権の王者としての資質と江南の天運を挙げて魯粛を説得し、魯粛は思いとどまって、周瑜の推挙で孫権に仕えた。初めて謁見した際、孫権は彼を大いに気に入り、他の客が帰ったあとも一人だけ呼び戻して酒を酌み交わしながら天下を論じた。魯粛は、漢の復興は無理で曹操も容易には除けないから、江東に割拠して天下の変を見守り、曹操が北方に手を取られている間に黄祖と劉表を討って長江を押さえ、帝王を号するのが最善の計だと述べた。孫権は、今は地方を保つので手一杯だと答えるにとどまった。重臣の張昭は魯粛の不遜さを咎めたが、孫権はかえって魯粛を厚くもてなし、その母は以前の資産家の頃と同じ暮らしができるようになった。

建安13年(208年)、劉表が死去すると、魯粛は弔問の使者となることを申し出て荊州へ向かい、当陽の長坂で劉備に会った。同盟を説くと劉備は喜んだ。孫権の陣営が降伏論に傾くなか、魯粛は一人沈黙し、孫権が厠に立つとあとを追って、降伏しても自分と違い孫権には身の置き所がないと説いた。孫権は同じ考えだと打ち明け、魯粛を天からの贈り物と称えた。魯粛の進言で周瑜が呼び戻されて軍の総指揮を任され、魯粛はその補佐の賛軍校尉となった。周瑜の死後はその遺言で後継に選ばれ、兵4千ほどと所領4県を受け継ぎ、陸口に駐屯した。曹操という大敵に備えるには劉備に力を与えるべきだと考え、孫権に勧めて劉備に荊州を貸し与えさせた。

建安20年(215年)、劉備が益州を得ても荊州の三郡を返さなかったため、孫権は呂蒙に命じて三郡を攻めさせ、魯粛は1万の軍を率いて巴丘に進み、益陽に城を築いて関羽と対峙した。曹操が漢中を領有すると、劉備は和解を求め、湘水を境として荊州を分けることで停戦した。建安22年(217年)秋、46歳で死去した。孫権は哭礼し、葬儀にも自ら参加し、諸葛亮も喪に服した。のちに孫権は皇帝に即位した際、「周瑜がいなければ帝位にはつけなかった。そして魯粛にはこうなることが分かっていたのだ」と語ったという。『呉書』は魯粛を、公平謹厳で質素に暮らし、軍中でも書物を手放さず、周瑜亡き後の呉を代表する人物だったと評している。

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