HISTORICAL PERSON · 1987年没

マルグリット・ユルスナール

筆名は本姓のアナグラムに由来するフランスの小説家。ベルギーのブリュッセルに生まれ、北フランスの館で育った。

生涯
1987年没
死亡地
アメリカ合衆国(メイン州 / バーハーバー)
出生地
ベルギー王国(ブリュッセル市)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(メイン州)

伝記

マルグリット・ユルスナールは、1903年6月8日にブリュッセルで生まれたフランスの小説家である。本名はマルグリット・アントワネット・ジャンヌ・マリー・ギスレーヌ・クレーネウェルク・ド・クレヤンクールといい、筆名のユルスナールは、本姓のクレヤンクールのアナグラムである。父ミシェルはフランス貴族の末裔、母フェルナンドはベルギー貴族の末裔で、父の二人目の妻であった。母は出産のときの産褥熱で世を去り、父は娘を連れて、北フランスのノール県にあるモン=ノワールの館に帰った。幼いころは、夏はモン=ノワール、冬はリールの屋敷で過ごした。1912年から父とパリに移り、父と家庭教師から教育を受け、博学な父の教えで、西洋古典の教養を身につけた。1914年にベルギーに滞在していた間に、第一次世界大戦が始まって帰国できなくなり、イギリスに渡ってロンドンに1年間住んだ。ここで英語を学び、父からラテン語を教わった。翌年パリに戻ると、父からギリシア語を学び、イタリア語は独習した。

1921年に詩集を自費出版し、そのとき初めてユルスナールの筆名を用いた。1924年にイタリアのヴィラ・アドリアーナを訪れ、『ハドリアヌス帝の回想』の着想を得て執筆を始めたが、この原稿も破棄された。1929年にローザンヌで父が亡くなり、その前年に書いた小説『アレクシス あるいは空しい戦いについて』を刊行した。1932年の『ピンダロス』で、初めて「マルグリット・ユルスナール」の筆名を使った。1935年からギリシャにしばしば滞在し、バルカン諸国やインド、中国、日本などを題材にした作品集『東方綺譚』を書いた。1937年にはロンドンでヴァージニア・ウルフを訪ね、アメリカ人女性グレース・フリックと知り合った。1939年に再びアメリカへ渡ったが、第二次世界大戦のため帰国できなくなり、その後11年間をアメリカで暮らした。1942年から1949年までサラ・ローレンス大学の非常勤講師として、比較文学とフランス文学を教えた。1947年にはアメリカの市民権を取得し、「マルグリット・ユルスナール」を本名とした。

1950年にメイン州のマウント・デザート島に土地と家を購入し、「プチット・プレザンス」と名づけて、グレースと暮らした。1951年にフランスへ帰り、1952年に、ローマ皇帝の個人的な回想の形をとった歴史小説『ハドリアヌス帝の回想』が文学賞を受賞して、国際的な名声が高まった。この後は、ドイツやフランス、ベルギーなどを転々とし、冬はポルトガルやスペインで過ごした。人権や平和の擁護、動物保護など、多くの運動団体にも参加した。1968年に刊行した『黒の過程』は、ルネサンス期の医師で錬金術師のゼノンの激動の生涯を描き、フェミナ賞を受賞して名声を不動のものにした。1977年にアカデミー・フランセーズの文学大賞を受け、1980年には女性初のアカデミー・フランセーズ会員となった。

1979年にグレースが死去した。1982年には来日し、松島、中尊寺、伊勢、宇治、京都、広島などを訪れた。1985年に心臓発作に襲われてボストンの病院で手術を受けたが、翌年からヨーロッパ各地に滞在し、ジュネーヴで入院中のボルヘスを見舞った。1987年11月に脳出血で、マウント・デザート島の町バー・ハーバーの病院に入院し、12月17日に同病院で死去した。自伝的な三部作『世界の迷宮』の第三部は、未完のまま1988年に刊行された。三島由紀夫を高く評価し、評論『三島あるいは空虚のビジョン』を書いている。

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