伝記
アレッサンドロ・“サンドロ”・ペルティーニは、1896年9月25日に生まれ、1990年2月24日にローマの自宅で没したイタリアの政治家である。1978年から1985年まで、イタリア共和国の第7代大統領を務めた。名は短縮形のサンドロで知られ、「国民から最も愛された大統領」と言われた。
サヴォーナ県ステッラの地主の家に生まれた。貴族的な家柄で、兄弟が4人おり、長兄は画家、末の弟ウジェーニオは、強制収容所に送られて1945年に行方不明となった。母と強く結びついていた。ヴァラッツェのサレジオ会の学校に寄宿して学び、サヴォーナのリセに進んだ。リセの教師で哲学者のバラトーノは、改革派の社会主義者で、彼に社会主義を教えて、労働運動の世界へ導いた。ジェノヴァ大学に入り、法学の学位を取った。第一次世界大戦には反対の立場だったが、1917年に陸軍に将校として入隊し、イゾンツォ戦線に送られた。自らの回想録にも、戦争に反対だったと記している。しかし戦場では英雄的な働きを示し、1917年8月の突撃を指揮した功績により、銀の武勲章を授与されるはずだったが、のちにファシズムが政権を握ると、社会党員だったために、メダルは渡されなかった。1918年にイタリア社会党に入党し、一時期を除いて、生涯この党に属した。フィレンツェに移り、1924年に政治学で2つ目の学位を得た。
1922年にファシスト党が政権を握ると、社会党は最も迫害された集団の一つになった。ペルティーニは、社会党議員マッテオッティの暗殺を知って、統一社会党に入党した。政治活動のために、ファシストの行動隊からの襲撃を受けることも多かった。1925年5月に、地下出版のビラを配った容疑で逮捕され、同年6月に禁固8か月と罰金の刑を受けた。釈放後もすぐに闘争を再開した。ファシズムへの抵抗運動に参加して政治犯として投獄され、獄中で同じく囚われていたアントニオ・グラムシと交流した。
第二次世界大戦の末期には、共産党のルイジ・ロンゴらとともに、北イタリア国民解放委員会の指導者となった。1945年4月25日には、ファシズムと、北イタリアを占領していたドイツに対する一斉蜂起を率いた。ムッソリーニは4月28日に処刑された。戦後はピエトロ・ネンニとともに社会党の再建に努め、1945年からの1年間は書記長を務めた。1968年から1976年まで下院議長を務めた。
1978年、ロッキード事件に絡んでレオーネ大統領が辞任したため、大統領に就任した。7月8日の第16回投票で、995票中832票を得て当選し、翌9日に宣誓を行った。社会党から初の大統領だった。在任中、イタリアは赤い旅団などのテロが頻発し、1978年にはヨハネ・パウロ1世が在位33日で急死するなど、社会的な不安が広がった。1978年の教皇の選出は、455年ぶりの非イタリア人教皇ヨハネ・パウロ2世の誕生となり、ペルティーニは、教皇と頻繁に会って、電話もした。個人としては無神論者だったが、宗教には深い理解を示した。いかなる過激主義にも反対し、モロ元首相らの暗殺の実行犯を厳しく非難した。1982年3月に来日し、参議院本会議場で全面核軍縮を訴える演説を行った。
同じ年に亡くなった人物
- メイル・カハネ (1990年没)
- ノーマン・カズンズ (1990年没)
- ヤドヴィガ・ワイス (1990年没)
- アンドリュー・ウッド (1990年没)
- レフ・ヤシン (1990年没)
同じ地域に関係する人物
- Gaspar del Bufalo (1837年没)
- ニギディウス・フィグルス (紀元前45年没)
- ルキウス・コルネリウス・メルラ (紀元前87年の補充執政官) (紀元前87年没)
- ステファヌス6世 (ローマ教皇) (897年没)
- ファールーク1世 (エジプト王) (1965年没)