伝記
曹髦は、三国時代の魏の第4代皇帝である。少帝髦、廃帝髦、高貴郷公髦とも称され、字は彦士という。241年に生まれ、260年に20歳で没した。文帝曹丕の孫で、東海定王曹霖の子にあたり、兄に曹啓がいる。244年、3歳のときに高貴郷公に封ぜられた。249年に父が没すると、兄の曹啓が東海王を継いだ。
そのころ魏の国政は司馬氏の手に移っていた。254年、司馬師は皇帝曹芳を廃した。司馬師が次の皇帝に曹丕の弟の曹拠を立てようとしたところ、郭太后が、曹拠は明帝曹叡の叔父にあたり、曹叡に継ぐ者がいなくなると反対し、曹髦を推した。司馬師は譲歩せざるを得なかった。洛陽に召された曹髦は、即位するまで皇帝らしく振る舞わず、公としての礼にしたがって行動し、謙虚な若い皇帝として人々の支持と称賛を得たという。才能は幼い頃から抜きん出ていたとされ、鍾会は司馬師に「才能は陳思王(曹植)と同じほど、武勇は太祖(曹操)に似ておられます」と評した。
255年、毌丘倹と文欽が司馬師の専横に反乱を起こしたが鎮圧され、同年に司馬師も病没した。このとき14歳の曹髦は、司馬昭を許昌に留め、軍勢を洛陽に向かわせるよう命じて兵権を奪おうとした。しかし軍の移送を命じられた傅嘏は従わず、鍾会の進言もあって司馬昭は洛陽へ戻り、政権を握り続けた。曹髦は司馬昭を大将軍・録尚書事とした。曹髦は王沈、裴秀、司馬望、鍾会ら文才のある者を周りに集め、東御殿で文学を論じる気楽な討論会をよく開いた。16歳のときには荀顗らと歴代の帝王の優劣を論じ、滅亡寸前の夏を建て直した少康を評価した。せっかちな性格で、宮中の職にない司馬望には追鋒車と虎賁の兵5人を与え、すぐに来られるようにした。
257年に諸葛誕が反乱を起こすと、曹髦は司馬昭に奉戴される形で皇太后とともに親征し、258年に鎮圧された。司馬昭を相国・晋公に封じて九錫を授ける詔も出したが、これは司馬昭の差し金で、司馬昭は辞退した。259年に井戸の中で龍が目撃されたと相次いで報告されると、周囲は吉兆としたが、曹髦は君主の徳を表す龍が天にも田にもいないのは吉兆でないと否定し、『潜龍』の詩を詠んだ。司馬昭はこれを読んで不愉快に思ったという。
260年4月に再び司馬昭に晋公と九錫を与える詔が出され、翌5月7日、曹髦は王業・王沈・王経に「司馬昭の心は、道行く人でも皆知っている」と述べ、廃位の恥辱は受けられないと打ち明けた。王経は諫めたが、曹髦は自ら剣を手に数百人の召使いらを率いて挙兵した。王業と王沈が密告しており、賈充が軍勢とともに待ち受けていた。誰も天子を畏れて斬りかからなかったが、賈充に叱咤された成済が刺し、曹髦は車中で命を落とした(甘露の変)。司馬昭は成済に責任を負わせて一族ごと処刑し、王経も母とともに処刑されたが、賈充は罪に問われなかった。公式には皇太后殺害を企てて衛兵に殺されたと発表され、葬儀は庶民の扱いとされかけたが、司馬孚が皇太后に談判して王の格式になった。暗殺を聞いた司馬孚と陳泰は遺体を膝に乗せて哭礼を行い、陳泰は司馬昭に、命じた賈充を腰斬にするほかに天下に謝罪する方法はないと言って譲らなかったという。陳寿の『三国志』は、死を「崩」ではなく軽い「卒」と記し、場所も書かず、事態の異常さを間接的に示している。著作集『高貴郷公集』4巻は隋代にすでに失われ、詩は2篇が断片的に残るのみである。