伝記
孫休は、三国時代の呉の第3代皇帝である。初代皇帝の孫権の六男で、第2代皇帝孫亮の兄にあたる。生母は王氏(敬懐皇后)で、嘉禾4年(235年)に孫休を産んだという。13歳のとき(247年)には、中書郎の謝慈と郎中の盛沖から学問を授かった。
太元2年(252年)正月に琅邪王に封じられ、虎林に住んだ。同年4月に孫権が没して孫亮が即位すると、補佐役の諸葛恪が実権を握った。諸葛恪が諸王を長江沿いの要地に置くことを嫌ったため、孫休は丹陽郡に移った。丹陽太守の李衡がたびたび圧迫するような態度をとったので、他郡への移住を願い出て、会稽郡に移った。会稽では数年を過ごし、太守の濮陽興と親しくなったという。龍に乗って天に昇ったが振り返ると尻尾がなかった、という夢を見たとも伝わる。
太元3年(258年)9月、孫亮が実権を握る孫綝と対立して廃位され、孫休が皇帝に擁立された。迎えの使者が来たとき、孫休は陰謀を疑い、1日2晩迷った末に都へ向かった。到着すると百官の礼を受け、三度辞退したうえで皇帝の礼をとり、年号を永安と改めた。孫休は、罪を悔いて出頭した李衡を釈放して郡に戻らせ、王蕃・薛瑩・虞汜・賀邵を散騎中常侍に任じて好評を得た。一方、孫綝一門からは5人の侯が出て近衛兵を率い、権勢は孫休を凌ぐほどであった。孫休は恩賞を重ねて懐柔したが、孫綝が贈り物を拒まれたことを恨み、酒席で廃立を口にしたと張布から伝えられる。同年12月8日、張布・丁奉らと図り、祖先の祭の場で孫綝を誅殺して一族を滅ぼした。孫峻・孫綝のために不慮の死を遂げた諸葛恪らの名誉は回復されたが、諸葛恪の顕彰碑の建立は、その失策も考慮して許さなかったという。
親政を確立した孫休は、五経博士を設けて学問を好む者を選抜し、年ごとの試験の成績で官位や恩賞を与えた。永安2年(260年)には武より文を重んじ農耕を盛んにする方針を示し、丹陽郡の干拓のため浦里塘を築いたが、莫大な費用がかかり多くの兵が死んで、人々の怨みを買った。会稽で孫亮の復位の流言が出ると、孫亮を侯官侯に降格して任地へ向かわせたが、孫亮は途中で自殺した。孫休は護送の役人を処刑したが、毒殺であったとする説もある。永安4年(261年)には周奕と石偉に各地の風俗や役人の清廉さ、民の苦しみを調べさせ、その結果に基づいて地方官の昇進と左遷を命じた。永安5年(262年)には朱氏を皇后に、子を太子に立て、濮陽興を丞相とした。
孫休は諸子百家の書を読み尽くすほど学問を好み、雉狩りにも熱中した。しだいに朝政から遠ざかり、濮陽興と張布が政治を握った。あるとき孫休は博士祭酒の韋昭らを招いて学芸を論じようとしたが、張布が自らの専断の露見を恐れて反対し、孫休は軽くたしなめるだけで談義を取りやめた。永安6年(263年)には交阯郡で呂興らが反乱を起こして太守の孫諝が殺され、蜀の劉禅降伏の知らせで救援の軍事行動もすべて中止された。永安7年(264年)7月25日、孫休は没した。死の直前に口がきけなくなり、字を書いて濮陽興を呼び、子に拝礼させて後事を託したともいう。その後、濮陽興・張布らは朱太后の同意を得て孫晧を擁立した。孫休の4人の男子のうち年長の2人は孫晧に殺された。陳寿は、孫休が親しい濮陽興・張布に政治を任せ、学問を好んでも国の乱れを正す役に立たなかったと評し、孫亮の非業の死は兄弟への思いやりが足りなかったからであろうとした。
同じ年に亡くなった人物
- 鍾会 (264年没)
- 姜維 (264年没)
- 鄧艾 (264年没)
- アレクサンドリアのディオニシオス (264年没)
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