伝記
クロード・シャブロルは、1930年6月24日に生まれ、2010年9月12日にパリで没したフランスの映画監督であり、映画プロデューサー、脚本家である。ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、エリック・ロメール、ジャック・リヴェットらと並ぶヌーヴェル・ヴァーグを代表する監督の1人である。
イヴ・シャブロルとマドレーヌ・ドゥラルブルの子として生まれ、パリではなく中部クルーズ地方の村サルダンで育った。本人は、自分は都会人ではなく田舎の人間だと考えていたという。父も祖父も薬剤師で、家業を継ぐことを期待されたが、子どもの頃から「映画の悪魔にとりつかれ」、12歳から14歳の間は、サルダンの納屋で映画クラブを運営した。この頃にスリラーや探偵小説への情熱が生まれた。第二次世界大戦後にパリに出て、ソルボンヌ大学で薬学と文学を学び、シネマテーク・フランセーズなどで、のちの仲間であるロメールやリヴェット、ゴダール、トリュフォーと出会った。卒業後は兵役で衛生部隊に勤め、ドイツで軍曹に至った。
1952年6月に最初の結婚をして、妻アニエスとの間に2人の息子がいる。1953年、アンドレ・バザンが編集長を務めていた映画誌「カイエ・デュ・シネマ」で映画評を書き始め、同時に「ミステール」誌に探偵小説を書き、20世紀フォックスのパリ支社で宣伝の仕事もしたが、「見たことのない最悪の宣伝担当」と言われたという。1956年、妻の祖母から相続した遺産で製作会社を設立し、リヴェットの短編『王手飛車取り』を製作して、脚本を共同で書き、出演もした。1957年にはロメールとともに、ヒッチコックの作品を論じた『ヒッチコック』を著した。ヒッチコックの影響は、サスペンスを主とするシャブロルの作品に大きい。他のヌーヴェル・ヴァーグの監督と違って、短編を撮ることも他の監督の助手をつとめることもなく、いきなり長編で監督デビューした。
1958年、監督デビュー作『美しきセルジュ』がロカルノ国際映画祭やヴェネツィア国際映画祭で上映され、ジャン・ヴィゴ賞を受賞した。1959年の第2作『いとこ同志』はベルリン国際映画祭の金熊賞を受け、興行的にも成功して、その収入はロメールの処女長編『獅子座』の製作費に充てられた。同年から翌年にかけて、リヴェットの処女長編『パリはわれらのもの』の撮影を支え、シャブロルの会社が共同製作した。1960年代後半からは、『女鹿』(1968年)、『不貞の女』(1968年)、『野獣死すべし』(1969年)、『肉屋』(1969年)など、スリラーを撮った。1962年にアニエスと離婚して、女優のステファーヌ・オードランと再婚し、1980年に離婚して、1983年にスクリプターのオロールと再々婚した。1978年の『ヴィオレット・ノジエール』では、イザベル・ユペールを主役に起用し、『ボヴァリー夫人』(1991年)、『沈黙の女』(1995年)などに続いた。1985年の『意地悪刑事』以降の晩年の作品は、マラン・カルミッツが製作した。1995年に永年の業績でルネ・クレール賞を受賞した。ほぼ毎年1本の映画を撮り続け、2010年9月12日の早朝、パリで死去した。
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