伝記
アラウィウスは、4世紀後半にテルヴィンギ族の一派をフリティゲルンとともに率いたゴート人の指導者である。376年に没した。出自ははっきりしない。名前の成り立ちから、バルト家と関係があり、アタナリクの近親者だったかもしれないという説や、のちの王アラリックの父だったとする説がある。フリティゲルンとともに、テルヴィンギ族をダキアからドナウ川の向こうのローマ帝国へ導いた人物である。
当時のテルヴィンギ族は、4世紀後半の内戦に苦しんでいた。王フリティゲルンは裁判官アタナリクの対抗者として台頭し、親ローマ、親キリスト教の政策を主張していた。ソゾメノスによればフリティゲルンはカトリックで、アタナリクによるキリスト教徒への迫害に反対したという。370年代半ばにはフン人の侵入が新たな混乱を招き、フン人に圧迫されたグロイトゥンギ族がテルヴィンギ族の国境へと向かった。アタナリクは内戦に敗れたものの、なおテルヴィンギ族の大半を指揮しており、軍を集めて侵入者に立ち向かった。フリティゲルンはこれを利用して援軍の派遣を拒み、アタナリクの軍は敗れてカウカランドへ退いた。
アラウィウスが史料に初めて現れるのは376年の夏である。フリティゲルンがアタナリクの従者の多くを離反させ、ローマに助けを求めるよう提案したときで、続く交渉の指導者として名が挙がる。貴族としての地位が高かったためかもしれない。アンミアヌス・マルケリヌスは彼を「公」と呼んでおり、ヘルヴィヒ・ヴォルフラムは、言及はないが王だったに違いないと考える。
二人は皇帝ウァレンスの許可を得た。ウァレンスは数年前にフリティゲルンの内戦を援助した人物である。降伏者として帝国内に定住するという条件であり、二人はそれに先立ち、民が川を渡る前にすべてアリウス派へ改宗することを確約したとされる。当時アンティオキアにいたウァレンスの返答では、彼らはモエシア・セクンダとダキア・リペンシスに定住し、自活できるまでローマの援助を受けることになっていた。ササン朝との戦争中だった皇帝は、その大半を兵士として東方の都市の防備に充て、残りは農民として税を納めさせることを見込んでいた。
しかし計画は崩れた。移民はドゥロストルム(現在のブルガリアのシリストラ)付近で川を渡り、その数は予想をはるかに超えて、集めた物資では足りなかった。皇帝の返答が東方から届くまでに2か月近くかかったことも、状況を悪化させた。ローマの役人ルピキヌスとマクシムスは、飢えにつけ込んで少量の食糧や犬の死骸を高値で売りつけ、代価としてテルヴィンギ族の子供たち、貴族の子まで奴隷にして大金を得た。落ち着かないゴート人を抑えるため、ルピキヌスはトラキアの部隊に命じ、マルキアノポリス近くの野営地へ護送させた。376年の秋か、376年から377年にかけての冬にあたるころ、マルキアノポリスでルピキヌスはフリティゲルンとアラウィウスを和解の宴に招いた。その最中、飢えたゴート人の一団が居留地の近くを襲った。ルピキヌスはこれを謀反と受け取り、二人の護衛を殺すよう部下に命じた。ヨルダネスによれば、混乱のなかでアラウィウスは殺され、フリティゲルンは逃れた。一方アンミアヌスは、アラウィウスは捕らえられ、フリティゲルンは民をなだめると言ってルピキヌスを説得し、解放されたと述べる。フリティゲルンはその後、反乱を引き起こし、アドリアノープルの戦いにおけるゴート人の決定的な勝利へとつながった。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィティミール (376年没)
- Photinus of Sirmium (376年没)
- エルマナリク (376年没)
- 大テオドシウス (376年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴワディスワフ3世 (ポーランド王) (1444年没)
- オットー・ブラウン (共産主義者) (1974年没)
- ローター・コラッツ (1990年没)
- キモン・ゲオルギエフ (1969年没)
- コンスタンチン・ベンケンドルフ (1828年没)