HISTORICAL PERSON · 420年没

ヒエロニムス

キリスト教の聖職者・神学者で、聖書のラテン語訳ウルガタの翻訳者。四大ラテン教父の一人で、教会博士。ローマで教皇ダマスス1世に重用されて翻訳に着手し、ベツレヘムで405年ごろ完成させた。

生涯
420年没
死亡地
パレスチナ国(ウェストバンク / ベツレヘム)
出生地
クロアチア共和国(Stridon)
出典
世界地図
パレスチナ国(ウェストバンク)

伝記

ヒエロニムスは、347年ごろ、ダルマティア属州のストリドンに生まれたキリスト教の聖職者・神学者で、420年9月30日にベツレヘムで没した。ストリドンはダルマティアとパンノニアの境にあった町とされ、父はエウセビウスという。聖書のラテン語訳であるウルガタの翻訳者として知られ、四大ラテン教父の一人に数えられる。両親はキリスト教徒だったが、本人は当初キリスト教に関心が薄く、洗礼を受けたのは360年から366年の間、修辞学と哲学を学ぶために友人ボノススとローマへ出た時期とされる。ローマでは文法家ドナトゥスにラテン語文法とギリシア語を学んだが、後年主張したほどにはギリシア語に熟達しなかったという。学生時代は放埓な仲間との付き合いに悩み、その後悔から日曜ごとに殉教者や使徒の墓を訪ね、カタコンベで地獄の恐怖を思い起こしたと伝えられる。その恐怖を語るのにウェルギリウスの一節を借りており、初期の彼が古典の語で教義を語ったことは古典教育の表れとされる。故郷は4世紀にはすでに完全にラテン語化していたため、母語はラテン語だったとみられる。

その後ガリアへ赴いてトリーアに落ち着き、神学の勉強を始めたらしい。友人ルフィヌスのために書物を写し、アクイレイアでも長く過ごして多くのキリスト教徒の友を得た。373年ごろ、彼は数人の仲間とトラキアと小アジアを通ってシリア北部へ旅した。アンティオキアでは同行者2人が亡くなり、自身も何度か重病にかかった。373年から374年の冬に近い病のさなかに見た幻がもとで世俗の学問を捨て、神に身を捧げる決意をしたという。アンティオキアではラオディキアのアポリナリオスの指導で聖書研究に傾き、その後アンティオキア南西のカルキスの荒野で隠遁生活を送った。そこには多くの隠修士がおり、彼は改宗ユダヤ人からヘブライ語を初めて学んだ。同じころ「ヘブライ人の福音書」の写本を手に入れ、その一部をギリシア語に訳したとされる。

378年か379年にアンティオキアで司教パウリヌスから叙階されたが、禁欲的な生活を続けることが条件で、本人の意には沿わなかったらしい。その後コンスタンティノープルでナジアンゾスのグレゴリオスに聖書の研究を学び、約2年滞在した。382年にはアンティオキア教会の分裂を収めるための公会議に出席するためローマへ赴き、教皇ダマスス1世に重用されるようになった。ローマ滞在は385年まで続き、ギリシア語の新約写本をもとに旧ラテン語訳聖書の校訂を行い、ローマで使われていた詩編も七十人訳に基づいて改めた。

384年にダマススが世を去ると、庇護を失ってローマを離れ、聖地エルサレムへ向かった。ベツレヘムやエルサレムのほか、エジプトも訪ねて研究の幅を広げたのち、ベツレヘムに落ち着いて著述と聖書の翻訳を続けた。旧約聖書はヘブライ語とアラム語の原典から訳し、405年ごろにこの事業を完成させた。これがウルガタで、「普及した版」を意味し、中世から第2バチカン公会議に至るまでカトリックの標準であり続けた。彼は多くの神学的著作と書簡を残し、カトリック教会では1295年に教皇ボニファティウス8世により4大教会博士の一人と公認された。ギリシア語やヘブライ語をはじめ諸言語に通じ、豊かな古典の知識を備えた彼は、神学の水準向上と聖書研究の歴史に大きな足跡を残した。正教会、聖公会、ルーテル教会などでも聖人とされる。

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