HISTORICAL PERSON · 2020年没

カーク・ダグラス

ロシア帝国出身の移民の子としてニューヨーク州に生まれ、苦学して俳優を志した。1946年に映画デビューし、映画プロデューサーとしても活躍した。

生涯
2020年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ビバリーヒルズ)
出生地
アメリカ合衆国(アムステルダム)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

カーク・ダグラスは、1916年12月9日にニューヨーク州アムステルダムで生まれ、2020年2月5日に103歳で没したアメリカ合衆国の俳優、映画プロデューサーである。帝政ロシア領(現ベラルーシ)からの移民ダニエロヴィッチ夫妻の子で、一家は親族にならってデムスキーを名乗り、本人も少年期は「イジー・デムスキー」として育った。

家は貧しく、少年時代は新聞配達や露天商、庭師など多くの職を転々としながら学業に励んだ。借金で学費をまかなってセントローレンス大学へ進み、返済のためにアルバイトのほか、ボクシングの試合に出てファイトマネーを稼いだり、ナイトクラブや街頭で歌ったりしたという。高校のころ俳優になる夢を改めて自覚し、アメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツに入って才能を開き、特別奨学生にもなった。同窓にはローレン・バコールがいる。1941年に徴兵されて第二次世界大戦中は海軍に従軍し、1944年に負傷で除隊した。徴兵の際に戸籍上の名を「カーク・ダグラス」に改めている。

1941年に卒業公演『春よ再び』でブロードウェイ・デビューを果たし、除隊後はラジオドラマや舞台で働いた。バコールの勧めで1946年に映画『呪いの血』で銀幕にデビューし、のちにハリウッドへ活躍の場を移した。8本目の出演作『チャンピオン』以降は硬派なイメージが定着し、同作でアカデミー主演男優賞にノミネートされた。さらに『悪人と美女』『炎の人ゴッホ』でも同賞の候補になったが、受賞はならなかった。『炎の人ゴッホ』ではゴールデングローブ賞の主演男優賞(ドラマ部門)を得ている。『海底二万哩』の軽妙な演技やテレビでのミュージカルなど、多彩な面も見せた。1956年には同期デビューの親友バート・ランカスターと協定を結び、『OK牧場の決斗』でともに主演している。

製作面では、1947年に母の名にちなんだ独立プロダクション「ブライナカンパニー」を興した。本格的な製作参入は1955年の『赤い砦』である。1960年には自ら主演と製作総指揮を務めて大作『スパルタカス』を作り、赤狩りで排斥され投獄までされたハリウッド・テンの一人ダルトン・トランボを正式にクレジットして起用し、その復活に手を貸した。エージェントによるギャラの搾取が妻の助言で発覚し、追徴課税75万ドルも命じられたが、1958年公開の『ヴァイキング』のヒットで全額を支払った。1973年には『明日なき追撃』で監督も務めている。

私生活では1943年にダイアナと結婚して二人の息子をもうけ、1951年の離婚後、1954年にアン・バイデンスと再婚してさらに二人の息子を得た。長男は俳優のマイケルである。1991年のヘリコプター事故をきっかけにユダヤ主義への思索を深め、1993年には83歳で二度目のバル・ミツワーを行った。1996年に脳梗塞を患って言語障害が残ったが、その後も公の場に姿を見せ、2011年には第83回アカデミー賞でプレゼンターを務めた。2015年12月には99歳の誕生祝いに際し、映画・テレビ基金へ1500万ドルを寄付し、アルツハイマー病を患う業界人のための施設建設に充てると発表した。日本とも縁が深く、1964年の来日では三船敏郎に会いたいと『赤ひげ』の撮影現場へ直行し、黒澤明と三船との3人の写真に収まった。1996年にアカデミー名誉賞、1981年に大統領自由勲章を受けている。

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