HISTORICAL PERSON · 625年没

Abd-Allah ibn Jahsh

ムハンマドの義兄弟で教友。アビシニアへの移住に加わり、ナフラ襲撃の指揮を執った。バドルの戦いにも参加し、ウフドの戦いで戦死した。

生涯
625年没
死亡地
サウジアラビア王国(マディーナ州 / Mount Uhud)
出生地
サウジアラビア王国(メッカ)
出典
世界地図
サウジアラビア王国(マディーナ州)

伝記

アブドゥッラー・ブン・ジャフシュは、イスラームの預言者ムハンマドの従兄弟にあたる教友で、義兄弟でもあった。586年ごろに生まれ、625年のウフドの戦いで戦死した。背は高くも低くもなく、髪が豊かだったと伝えられる。

父はメッカに移り住んだアサド族出身のジャフシュ・ブン・リヤーブ、母はクライシュ族ハーシム家のウマイマ・ビント・アブドゥル・ムッタリブで、母はムハンマドの父方の叔母にあたる。姉妹のザイナブはのちにムハンマドの妻となった。兄弟にはウバイドゥッラーとアブー・アフマドがいた。一家はハルブ・ブン・ウマイヤとその子アブー・スフヤーンと同盟を結んでいた。アブドゥッラーはハディージャの従姉妹にあたるファーティマ・ビント・アビー・フバイシュと結婚し、ムハンマドという一人の息子をもうけた。この妻はアサド氏族に属していた。

イスラームには、アブー・バクルの影響で入信したとされる。布教の初期、ムハンマドがダール・アル・アルカムを集会の場にする前に、二人の兄弟とともに改宗したという。616年にはほかの信徒とともに、アビシニアへの二度目の移住に加わった。兄弟のウバイドゥッラーも同地へ移ったが、そこでキリスト教に改宗し、その地で没した。アブドゥッラーは619年の終わりにメッカへ戻り、622年には、メディナへ最初に移住した者の一人となった。メディナでは、ムハンマドによってアーシム・ブン・サービトと兄弟の契りが結ばれた。

ヒジュラ暦2年のラジャブ月(623年10月)、ムハンマドはアブドゥッラーを、ほかの七人の移住者と六頭のらくだとともにナフラ遠征に派遣した。ムハンマドは彼に手紙を渡し、二日間進むまでは開かないこと、開いたら仲間に無理強いせずに指示に従うことを命じた。二日後に開くと、メッカとターイフのあいだのナフラまで進み、クライシュ族を待ち伏せてその動きを見張るよう書かれていた。クライシュ族の隊商が通りかかると、アブドゥッラーは、戦闘が禁じられた聖なるラジャブ月であるにもかかわらず、仲間に襲撃を促した。この戦いで商人の一人が殺され、二人が捕らえられ、荷もすべて奪われた。殺されたのは隊商の長アムル・ブン・アル・ハドラミーで、これはイスラーム教徒が敵の血を流し、捕虜と戦利品を得た最初の機会とされる。このとき、戦利品の五分の一をムハンマドのために取り分けるよう命じたが、その割合は、のちにアンファール章で定められたものと一致したという。

ムハンマドははじめ、「聖なる月に戦えとは命じていない」と言って行為を認めず、取り分も受け取らなかった。メッカの多神教徒は、聖なる月に戦闘と略奪を許したとムハンマドを非難した。その後、新しい啓示が下されたとされ、それは雌牛章217節に結びつけられている。この節は、人々を神の道から遠ざけ、不信仰を続け、聖モスクへの立ち入りを妨げてその住民を追い出すことは、聖なる月に戦うよりも重い罪だと説くものである。のちに彼はバドルの戦いに加わり、ウフドの戦いにも参加して、そこで戦死した。アフナス・ブン・シャリークに討たれたとされ、遺族によれば、敵は遺体の鼻と耳を切り落とした。遺体は、同じく戦死した母方の叔父ハムザと同じ墓に葬られた。死去したときの年齢は、およそ四十歳だったともいう。アフマド・ブン・ハンバルの『ムスナド』には、彼が伝えた二つのハディースが収められている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物