HISTORICAL PERSON · 859年没

宣宗 (唐)

唐の第19代皇帝で憲宗の十三男。宦官に擁立されて即位し、裴休らを起用して内政に努め、牛李の党争の一派を排除し、会昌の廃仏を廃した。治世は「小太宗」と呼ばれたが、晩年は丹薬の中毒で崩御した。

生涯
859年没
死亡地
斉 (黄巣)(陝西省 / 長安)
出生地
中華人民共和国(大明宮)
出典
世界地図
斉 (黄巣)(陝西省)

伝記

宣宗は、唐の第19代皇帝である。810年7月27日、大明宮で憲宗の十三男として生まれた。母は鄭氏で、かつて軍閥の李錡の側室だったが、807年に李錡が朝廷軍に敗れたのち憲宗の后である郭氏に仕える下女として宮中に入り、やがて李怡(のちの宣宗)を産んだとされる。820年に憲宗が没すると、郭氏の子である兄の李恒が穆宗として即位し、821年、李怡は光王に封じられた。

若いころの李怡は内気で口数が少なく、周囲から愚鈍と思われていたといわれる。穆宗の子である文宗、武宗の時代にも政治の場から身を隠すようにして、ほとんど口をきかなかった。皇族の邸宅群である十六宅を皇帝が訪れた際には、彼に何かを言わせようとして遊びの種にし、「光叔」と呼んだ。外向的な武宗はとりわけ彼を軽んじたという。846年の初め、武宗が重病で口もきけなくなると、宦官たちは李怡を後継に選んだ。扱いやすい人物とみたためと考えられている。武宗の名による詔で皇太叔とされ、名は怡から忱に改められた。ところが官僚たちの前に出た新しい皇太叔は、武宗のための複雑な服喪の儀礼を細かく守り、滞っていた政務もすぐにさばいて人々を驚かせた。愚かさは危険な宮廷抗争の中で身を守るための装いだったらしい。まもなく武宗が没し、李忱は即位した。

即位するとまず母の鄭氏を皇太后とし、権力を独占していた宰相の李徳裕を嫌って宰相から外し、荊南節度使として長安の外へ出した。同じ宰相の鄭粛も退けた。その後の数年で李徳裕に近いとみた官僚を排除し、李徳裕はたびたび左遷されて遠方へ移され、850年の年明けごろ崖州で没した。これにより、穆宗の時代から朝廷を悩ませた牛李の党争はほぼ終わったとされる。武宗と李徳裕が進めた仏教弾圧(会昌の廃仏)やエニセイ・キルギスとの同盟は改められ、李徳裕に代わって白敏中が首席の宰相に据えられた。白敏中は馬植らを推薦した。宦官に対しては穏健な抑制策をとり、裴休らも起用して国勢の立て直しに努めた。

対外面では、842年のランダルマ王の死後に内乱に陥った吐蕃に目を向け、848年から数年にわたって辺境の軍に命じ、安史の乱以来失われていた諸州を取り戻させた。現在の甘粛東部、寧夏南部、四川西部にあたる地域である。851年には漢人の張議潮が河西回廊を吐蕃の官吏から奪って唐に帰順し、吐蕃に奪われた土地はおおむね回復された。こうした治績から、小太宗と呼ばれ、唐の最後の有能な皇帝とみなされる。ただ戦乱で実録が失われたため、業績の詳細は不明である。

晩年は道教に傾き、不老長寿を求めた。大中13年(859年)、丹薬による中毒症状のため50歳で崩御した。後を継いだのは長男の鄆王李温で、懿宗である。『唐語林』には、越地出身の絶世の美女を寵愛しながら、楊貴妃のような災いを恐れ、大臣の説得を受けても宮から出すだけでは恋しくなるとして毒酒を賜ったという逸話が伝わる。家族については、皇子に鄆王李温(懿宗)のほか、夔王李滋、慶王李沂、昭王李汭、康王李汶、広王李澭らが知られ、皇女には鄭顥に嫁いだ万寿公主、于琮に嫁いだ広徳公主などがいる。『編年綱目』によれば、高麗の太祖王建の祖父にあたる王帝建は宣宗の庶子であったという。2009年に香港で制作されたテレビドラマ「宮心計」にも、陳豪の演じる人物として登場する。側室には晁美人、趙昭儀、呉昭儀、張婕妤らの名が伝わる。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物