HISTORICAL PERSON · 紀元前1年没

哀帝 (漢)

前漢の第13代皇帝。成帝の甥で19歳で即位し、外戚に権力が移った状況を見て大臣を厳しく罰し、武帝・宣帝に倣おうとした。実母や祖母への尊号をめぐり王莽らと対立した。董賢との「断袖」の故事でも知られる。

生涯
紀元前1年没
死亡地
中華人民共和国(陝西省 / 西安市)
出生地
中華人民共和国(菏沢市)
出典
世界地図
中華人民共和国(陝西省)

伝記

哀帝(劉欣)は、前漢の第13代皇帝である。元帝の孫にあたり、紀元前25年に定陶恭王劉康と丁姫の間に生まれた。母はあまり養育に関わらず、才知と宮中での人望があった祖母の傅氏が熱心に育てた。紀元前23年に父が死去したため3歳で定陶王の後嗣となり、成長すると文辞や法律を好んだとされる。

紀元前9年、17歳で長安に入朝した際、伯父の成帝の質問に明確に答え、『詩経』の内容も暗唱して意味を説明してみせたため、成帝はその才能を賞賛した。祖母の傅氏は孫を皇太子に立てようと、成帝の皇后趙飛燕と票騎将軍の王根に賄賂を贈った。二人は成帝に子がなく、自分たちの今後の立場も考えて、劉欣を後継者にと勧めた。紀元前8年、劉欣は一度は辞退したものの立太子され、都に招かれた。紀元前7年3月に成帝が死去すると、太皇太后の王政君と皇太后の趙飛燕の後ろ盾を得て、19歳で即位した。

即位した哀帝は、権力が外戚に移っていた成帝までの状況を見て、大臣を厳しく罰し、君主の威厳を強めて武帝・宣帝にならおうとしたという。音楽や女色は好まず、弓射と角力を見ることはしばしばあったが、即位後は両足に障害があったようである。日本の中国史学者の東晋次は、哀帝の性格は元帝や成帝より宣帝に近く、漢王朝の伝統的な統治方針に忠実な皇帝だったとみなしてよいと評している。

即位直後には、実母の丁姫に尊号を贈る問題が起きた。高昌侯の董宏の進言を、王莽と師丹は退け、哀帝は譲歩して董宏を庶人に落とした。しかし祖母の傅氏が激怒して強く求めたため、5月に傅氏の一族の女性を皇后に立て、丁姫に恭皇后、傅氏に恭皇太后の尊号を贈り、両家の一族を列侯に封じた。背後には、王氏と傅氏・丁氏の権力闘争があったとされる。未央宮の宴席で傅氏の席が太皇太后の王政君の横に置かれると、王莽は傅氏を「藩妾」と呼んで席を撤去させ、これを聞いた傅氏は激怒して王莽を恨んだ。王莽は再び辞任を求め、哀帝は黄金500斤と馬車を与え、領邑を増して屋敷に帰らせた。師丹は大司馬となり、田地や奴婢の所有に限度を設ける限田法を提案したが、傅氏・丁氏や董賢らの反対で延期され、実施されなかった。

哀帝は若い頃から王氏の驕慢を知り、心中では面白くなかったという。紀元前7年の7月頃には、王根と成都侯王況の奢侈を訴える上奏を受けて、王根には領国への帰還を命じ、王況は庶人に落とした。翌年には、趙飛燕がかつて成帝の子とその母を殺したとの訴えを聞き、趙飛燕の弟と甥を庶人に落として家族を遼西へ流した。紀元前5年には大司空と州牧の名を元の御史大夫と刺史に戻した。東晋次は、これを王氏に壟断された皇帝権の回復を意図したものと評する。この頃、丞相の朱博の上奏を受けて王莽は領地へ退けられたが、諫大夫の楊宣が王政君の心痛を訴えると、哀帝は深く感激し、王商の次男の王邑を成都侯に封じた。同じ年の6月には実母の丁氏が死去し、父と同じ定陶に葬られた。この頃、郎の董賢を気に入って重用し、同じ車に乗せ、寝起きも共にしたという。『漢書』は二人を男色の関係とする。病が続くなか、仙人赤精子の予言書を根拠とする夏賀良の進言で、改元すれば寿命が延びるとして元号を建平から太初元将に改めたが、1か月ほどで病状が変わらず、8月に元に戻し、夏賀良を処刑した。紀元前4年には甘泉の泰畤などの祭祀を元に戻し、儒家官僚の反発を招く処置となった。哀帝は紀元前1年に世を去った。

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