伝記
ペルディッカス3世は、アルゲアス朝のマケドニア王である。アミュンタス3世とエウリュディケの次男で、先王アレクサンドロス2世の弟、のちのピリッポス2世の兄にあたる。母のエウリュディケはイリュリアの王女だったとされる。在位は紀元前368年から紀元前359年までとも、紀元前365年から紀元前359年までともいわれ、数え方に幅がある。
兄のアレクサンドロス2世が殺されたとき、ペルディッカスはまだ幼かった。兄を殺したのはアロロスのプトレマイオスで、この人物がその後、摂政として王権を握ったとされる。ほかにも王位をねらう者がいたため、母エウリュディケは幼い二人の子、ペルディッカスとピリッポスを連れて、アミュンタスの養子になっていたアテナイの将軍イフィクラテスを頼った。その結果、王位をねらったパウサニアスはイフィクラテスによって追放された。のちに成長したペルディッカスは、王権をほしいままにしていたプトレマイオスを殺して政権を握った。これは紀元前365年のこととされる。
治世の記録は多くない。紀元前361年には、亡命中のアテナイの政治家カリストラトスがその下に入り、王国の立て直しを助けた。それでも対外的な難題は絶えず、エーゲ海沿岸ではアテナイとの争いが続き、西の国境ではイリュリア人が侵入をくり返していた。ペルディッカスはギリシアのテーバイと同盟を結び、人質を差し出して誠意を示したという。一方、アテナイとの戦いではメトネとピュドナという要地を失った。その後はオリュントスに対抗するためアテナイと手を結んだものの、紀元前362年にはアンフィポリスの支配をめぐって再びアテナイと争った。その際、アテナイの将軍カリステネスと講和したともされる。また、エピダウロスで開かれた全ギリシア的な競技祭では、テオロドコス(使節を迎える役)を務めたと伝わる。
ペルディッカスは文人の庇護者としても知られた。プラトンの弟子であるオレオスのエウフライオスは王の寵愛を受けて高い地位に上り、若い王を意のままにするほどの影響力を持ったという。エウフライオスは、哲学者と幾何学者以外の者を王の周囲から遠ざけたとも伝えられる。
最期は、上マケドニアの奪回をめざしてイリュリアの王バルデュリスと戦った遠征であった。この戦いでペルディッカスは4000人の兵とともに戦死した。死去は紀元前359年とも、紀元前360年ともいわれる。この敗北でマケドニアは滅亡寸前にまで追い込まれた。王位は幼い息子のアミュンタス4世が継ぎ、叔父のピリッポスが後見についたが、まもなくピリッポス自身が王位を奪った。
同じ年に亡くなった人物
- Timotheus of Miletus (紀元前359)
- アイスキネス (ソクラテスの弟子) (紀元前 359年)
- コトゥス1世 (紀元前359)
同じ地域に関係する人物
- アンティパトロス (紀元前319年没)
- クレオン (政治家) (紀元前422年没)
- アゲシポリス1世 (紀元前380年没)
- エウリピデス (紀元前400年代没)
- アルケラオス1世 (紀元前399年没)