伝記
オレスティス出身のパウサニアスは、マケドニア王ピリッポス2世の護衛官(ソーマトピュラクス)の一人で、紀元前336年にピリッポスを暗殺した人物である。父はケラステスといい、オレスタイ人の家系の出とされる。暗殺の直後、逃げる途中で殺された。
暗殺の動機について、最初に触れたのは同時代のアリストテレスで、個人的な理由による行為の例として簡単に挙げたにすぎず、どんな侮辱への復讐だったかには立ち入っていない。約50年後にクレイタルコスがこの話を膨らませ、のちにディオドロスがそれを受けて書いた。ディオドロスによれば、パウサニアスはかつてピリッポスの愛人だったが、王が同名の若者パウサニアスに目を向けたため怒り、この恋敵を公然と侮辱した。侮辱された若者は名誉を示すため戦闘で王を守って命を危険にさらし、戦死した。この若者の友人だった将軍アッタロスは復讐を決意し、パウサニアスを晩餐に招いて酔わせ、ほとんど意識のない彼を召使いたちに与えて凌辱させたという。
パウサニアスはこれをピリッポスに訴えたが、王はアッタロスを罰しなかった。アッタロスが有力な貴族であり、ペルシア遠征の先遣軍を任せるほど王が信頼する将軍だったためで、政治的な事情によるのかもしれない。代わりにパウサニアスは護衛官に取り立てられた。これは埋め合わせの意味だったともいわれる。ディオドロスは、この処罰の拒否がパウサニアスを王の殺害へ向かわせたとする。さらに、彼が助言を求めたソフィストから、偉大な人物の名はその暗殺者の名と切り離されないと告げられ、決意が強まったとも書かれている。ただし、凌辱の時期はイリュリア人プレウリアスの時代とされるが、ピリッポスが最後にイリュリアで戦ったのは紀元前344年である。そうすると事件から暗殺まで8年を要したことになり、激情による個人的な復讐としては長すぎるという疑問が残る。
暗殺は、ピリッポスの娘クレオパトラとエピロス王アレクサンドロス1世(オリュンピアスの弟)の結婚式の最中、アイガイの劇場で行われた。逃げようと市門へ走ったパウサニアスはブドウの根につまずき、アッタロス(アンドロメネスの子)、レオンナトス、ペルディッカスら、アレクサンドロスの友人でもあった護衛官たちの槍で殺された。逃走用の馬が近くに用意されていたことから、計画的な犯行だったことは確かだとされる。裁判では、ヘロメネスとアッラバイオスという二人が共謀の罪で有罪となり、処刑された。パウサニアスを刺した槍を投げたレオンナトスは、暗殺者への尋問を妨げようとしたと疑われたためか、降格された。
古代の記録は互いに食い違い、事件よりずっとあとのものでもあるため、パウサニアス自身の動機や意図をつかむのは難しい。ユスティヌスは、離縁されたオリュンピアスが、さらには息子アレクサンドロスも関わった陰謀だったと考えた。ピリッポスが紀元前337年にアッタロスの姪クレオパトラと再婚し、新たに男子が生まれれば、アレクサンドロスの継承が脅かされるからである。アッリアノスは、アレクサンドロスがダレイオス3世に送った手紙を挙げ、ペルシア王が暗殺の黒幕だったという説を伝える。この手紙は、ダレイオスとその大臣バゴアスを非難していた。プルタルコスは宴席でアッタロスが、ピリッポスと新妻の子こそ正統な後継者だと述べ、母がエピロス出身のアレクサンドロスを退けたという場面も記している。動機がはっきりしないのは、史料が不十分なためである。
同じ年に亡くなった人物
- クレオパトラ・エウリュディケ (紀元前 335年)
- バゴアス (紀元前335)
- アウダタ (紀元前335)
同じ地域に関係する人物
- ゲオルギオス1世 (ギリシャ王) (1913年没)
- カロヤン・アセン (1207年没)
- カッサンドロス (紀元前297年没)
- アレクサンドロス2世 (マケドニア王) (紀元前368年没)
- ペルディッカス2世 (紀元前413年没)