伝記
アブド・アッラーは、後ウマイヤ朝の第7代アミールである。844年1月11日にコルドバで生まれ、888年から912年まで在位した。父はムハンマド1世、母はウシャルで、母はアラブ人ではなくバスク系の出身だったという。兄にムンジルがいる。のちに跡を継ぐアブド・アッラフマーン3世の祖父にあたる。その治世は各地の反乱に悩まされ、後ウマイヤ朝の中でも力と威信の乏しいアミールとされる。
容貌については、血色のよい顔に金髪で額が広く、青い目と鷲鼻を備えた中背の人物だったと伝えられる。髭を赤みがかった色に、髪を黒や栗色に染めていたという。性格は敬虔で酒を口にせず、気前がよかったとされ、初期のカリフたちの歴史やイスラム以前の詩に通じ、話もうまく詩も作った。子は娘13人、息子12人にのぼった。後継者に目されたムハンマドのほか、ムタッリフやアル=アシも子として知られる。アル=アシは921年に陰謀を告発されて処刑されたという。一方で、治世に関心を示さず、狩猟と信仰に熱中する世捨て人だったとする説もある。
888年6月23日、兄ムンジルはイブン・ハフスーンの拠点ボバストロを包囲する陣中で亡くなった。弟のアブド・アッラーもその陣営にいた。同時代の歴史家は、アブド・アッラーが兄の殺害を企てて権力の座に就いたと非難し、宮廷医が毒を塗った刃で兄の瀉血を行ったのは彼の差し金だったという。ほかにも数人の親族の死に責任があるとみなされている。アミールの位に就いたのは6月26日である。
統治の間、アラブ人、ベルベル人、ムワッラドの部族どうしの戦いが絶えなかった。権威が及ぶのはコルドバ周辺の土地に限られ、ほかの地方は従わない反乱者の家に治められていた。トレド、サラゴサ、バダホスといったキリスト教諸国と接する辺境の諸都市も独立したままだった。最大の脅威となったのはイブン・ハフスーンで、レヨ(ボバストロを含む)、エルビラ(グラナダを含む)、ハエンを征服し、アルチドーナ、バエサ、ウベダ、プリエゴの住民と同盟を結んだ。891年にはポレイ城の近くで敗れて幾つかの都市を失ったが、翌年までに勢力を回復し、失った領土をすべて取り戻した。901年には親族のウマイヤ家のイブン・アル=キットが自らをマフディーと称して反乱を起こし、ベルベル人の軍を率いてサモラを攻めたが成功しなかった。晩年には北アフリカにファーティマ朝が興って新たな脅威となった。支配する領土が小さかったことが、彼のけちで知られる性格をいっそう強めたともいう。
家族をめぐる出来事も多い。863年ごろ、パンプローナ王フォルトゥン・ガルセスの娘オネカ・フォルトゥネスと結婚し、息子ムハンマドが生まれた。オネカは880年より前に離婚されてパンプローナ王国に戻ったとされる。アブド・アッラーはムハンマドを後継者に定めていたが、陰謀を疑って幽閉していた。891年1月28日、ムハンマドは異母兄弟のムタッリフに殺された。アブド・アッラーはムタッリフを罰さず、殺されたのは反逆の疑いのためだと正当化した。しかし895年、ムタッリフがセビリアの反乱者の一族と通じて失脚を謀ったと疑って処刑を命じた。ムハンマドの遺児アブド・アッラフマーン3世は、父の死の約3週間後に生まれていた。アブド・アッラーはこの孫を後継者に指名した。911年にはイブン・ハフスーンと和平を結んだが、翌年に争いが再燃し、その最中の912年10月15日、72歳でこの世を去った。在位は25年であった。
同じ年に亡くなった人物
- ノトケル・バルブルス (912年)
- 朱全忠 (912年没)
- オレグ (キエフ大公) (912年)
- イブン・フルダーズベ (912年没)
- ルドルフ1世 (ブルグント王) (912年没)
同じ地域に関係する人物
- アブド・アッラフマーン5世 (1024年没)
- ザルカーリー (1087年没)
- インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ (1616年没)
- ワッラーダ (1091年没)
- ハスダイ・イブン・シャプルト (970年代没)