HISTORICAL PERSON · 紀元前330年没

ニカノル (パルメニオンの子)

アレクサンドロス3世の将軍でパルメニオンの子。東征でヒュパスピスタイを率い、ダレイオス3世殺害の反逆者ベッソス追撃で先遣隊を指揮したが、遠征中に病死した。

生涯
紀元前330年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ニカノルは、アレクサンドロス3世(大王)に仕えたマケドニアの将軍である。重臣パルメニオンの子で、兄にフィロタス、弟とされるヘクトルがいる。生年は不明で、紀元前330年に病死した。ニカノルはおそらくパルメニオンの次男で、長男フィロタスは紀元前365年ごろの生まれとされるから、その数年後に生まれたと推定されている。

古代の記録に最初に現れるのは紀元前335年、アレクサンドロスがゲタイ人に対して行った遠征である。イストロス河(現在のドナウ河)を渡る作戦で、ファランクス部隊を率いた。兄弟が早くに登用されたことは、若い王の主要な敵のひとりだったアッタロスを除いたパルメニオンに、アレクサンドロスが報いたものとみる見方がある。兄フィロタスは、王の騎馬近衛であるヘタイロイを指揮していた。ニカノルは父や兄弟とともに紀元前334年に始まる東征に加わり、ヒュパスピスタイ(盾持ちの歩兵近衛)の指揮官を務めた。ヘタイロイの一部の部隊も率いたとする説明もある。この部隊は、ふつう三つの千人隊、合わせて3000人の経験豊かな兵からなると説明される。

グラニコス河、イッソス、ガウガメラという三つの主要な会戦で、ニカノルはいずれも右翼のヒュパスピスタイを率いた。その持ち場は、両翼を固める騎兵と中央の重装歩兵のあいだをつなぐ役で、隊列の一体性を保ちながら騎兵の攻撃を支える重い責任があった。ディオドロスやクルティウス・ルフスはガウガメラでの彼の部隊を「銀の盾」部隊と呼ぶが、その名の部隊が現れるのは後のことで、ヒュパスピスタイと混同したのだろうとも考えられている。紀元前331年にはアレクサンドロスが千人隊の編制を導入し、従来500人ずつ6部に分かれていたヒュパスピスタイを千人隊三つにまとめた。これはニカノルの影響力を抑えるための改革だったとする説もある。

ガウガメラの戦いのあと、ダレイオス3世は殺され、バクトリアの太守ベッソスが王を称した。ダレイオスを追ったアレクサンドロスは、最も足の速い部隊としてニカノルのヒュパスピスタイとアッタロス麾下の部隊を連れたが、あるところで騎兵だけを残して二部隊を戻した。ベッソス追撃でもニカノルは先遣隊を率いたといわれ、ベッソスはのちに捕らえられて処刑された。

ニカノルは紀元前330年、ヒュルカニアとアレイアのあいだで病気のために死んだ。クルティウス・ルフスによれば、突然の死に人々は広く悲しみ、アレクサンドロスは誰よりも悲しんで葬儀に立ち会おうとしたが、食糧不足のため先を急がねばならなかった。そこで兄フィロタスに2600人を預けて、ふさわしい弔いをさせたという。ある歴史家は、パルメニオン一家を嫌っていた王の悲しみが心からのものだったかを疑い、別の歴史家は王がパルメニオンの年下の息子たちを心から敬い慕っていたとみている。後者の歴史家は、ほどなく起きたフィロタスの処刑とパルメニオンの殺害を、二人と王との個人的な対立に結びつけて考えた。ほどなくフィロタスは王暗殺の陰謀の濡れ衣を着せられて殺され、父パルメニオンも殺された。ニカノルの死はその直前であり、兄の企てにも運命にも関わらずに済んだ幸運な出来事とみなされた。ニカノルの死の直後にフィロタスが殺されたことから、兄は弟の後を追う形になったともいわれる。後任のヒュパスピスタイ指揮官はネオプトレモスである。主要な会戦すべてで王の右翼を固めた将として、その名は東征の記録に残った。

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