伝記
ヤアクーブ・イブン・キッリス(イブン・キッリス)は、ファーティマ朝で初めて正式に宰相の地位に就いた人物である。930年ごろ、バグダードの名門のユダヤ人の家に生まれた。家族がシリアへ移ったのち、943年にエジプトに来て、イフシード朝の摂政カーフールに仕えた。聡明で勤勉、誠実な人物で、経済に通じた専門家として宮廷でたちまち重んじられ、家政と財産の管理者となり、やがてエジプトの国家財政を預かるようになった。
967年にイスラム教へ改宗すると、カーフールは大いに喜んで彼を側近に取り立てた。だがこれが宰相イブン・フラートの嫉妬を招いた。968年にカーフールが死ぬと、イブン・フラートはその側近たちを捕らえ、イブン・キッリスも投獄された。看守に賄賂を贈って脱出したとも、金を払って自由を買い戻したともいわれ、彼はイフリーキヤに向かい、ファーティマ朝のカリフ、ムイッズに仕えた。ムイッズは彼に国の経済を任せ、過去の経験を生かした働きぶりは非常に有能だったという。
969年にファーティマ朝がエジプトを征服すると、ムイッズはジャウハルとともに彼を現地の統治のために派遣したとされる。別の伝えでは、972年にカリフがエジプトへ赴いた際に同行したという。いずれにせよ、エジプトに戻った彼は経済を任され、国家の財政を整えた。征服後もイブン・フラートが宰相に留まったが、974年に辞任すると、ムイッズは行政をイブン・キッリスに委ねた。ムイッズの晩年と次のカリフ、アジーズの治世の最初の2年のあいだに、その働きによって地位は固まり、977年か978年にアジーズは彼を最高位の宰相に任じた。それ以前は、ファーティマ朝の歴代4人のカリフには、補佐役のワスタがいただけだった。979年のジャウハル罷免の後に宰相に任命されたとも伝えられる。
宰相となった彼は、国家の行政のために諸官庁を新たに設け、農業を奨励し、交易を改革して通貨を安定させた。そのため国は栄え、諸州の収入は増え、国庫はかつてなく満ちたという。983年か984年には理由の分からないまま寵を失い、アジーズから金貨2万ディーナールの罰金を科されたが、数か月のうちに復職した。学問や文化の保護者でもあり、宗教学に深い知識をもち、文学を好んだ。多くの書物を著したとされ、なかでも神学に関する『ムフタサル・アル・フィクフ』(宰相の書簡)が知られ、その編纂には40人の神学者が加わったという。毎週金曜の夜には邸宅で講義を開き、裁判官や神学者、文法学者、詩人などが集まって聴いた。アズハル・モスクで宗教教育を行い、彼の指示で大学が設けられたともいわれる。
991年1月10日に重い病に倒れると、アジーズは見舞いに訪れ、財産を投じて治るなら国庫の全財産を、命を犠牲にして救えるなら自分の息子を差し出す用意があると語ったという。カリフの信頼の厚さがうかがえる。病は日ごとに重くなり、991年2月22日に没した。死はエジプト中で悼まれ、その経帷子は50枚の布で飾られ、うち30枚は金糸の刺繍があった。イブン・ハッリカーンによれば、100人の詩人が哀悼の詩を作り、それぞれがカリフから褒美を受けた。カリフから広い権限を与えられ、国庫から高額の報酬も受けていた彼は、4,000人の若者からなる私兵を擁していたとも伝えられる。カイロには、彼にちなんで「宰相の区」と呼ばれる地区が生まれた。
同じ年に亡くなった人物
- アレラーモ (モンフェッラート侯) (991年)
- バルダス・スケレロス (991年)
- エルフギフ (991年没)
- ランツェリン (991年没)
- 平兼盛 (991年没)
同じ地域に関係する人物
- カーイム (1459年没)
- アフマド・イブン・アラブシャー (1450年没)
- アシュラフ・イーナール (1460年没)
- イブン・ハジャル・アスカラーニー (1449年没)
- オマル・シャリーフ (2015年没)