HISTORICAL PERSON · 1003年没

シルウェステル2世 (ローマ教皇)

フランス人初の教皇で、本名はジェルベール。数学者・天文学者として10世紀西欧で傑出し、ランスの教会学校では教師として後のフランス王ロベール2世らを教えた。

生涯
1003年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ラテラノ宮殿)
出生地
—
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

シルウェステル2世は、フランス人として初めてローマ教皇となった人物で、999年から1003年まで在位した。本名はオーリヤックのジェルベール、ラテン語名はゲルベルトゥスという。千年紀をまたいだ教皇であり、数学者・天文学者として、10世紀の西ヨーロッパで傑出した存在だった。

945年から950年ごろ、オーヴェルニュ地方の庶民の家に生まれた。幼くして、オーリヤックの聖ジェロー修道院に入った。967年に修道院を訪れたバルセロナ伯ボレル2世に伴われてスペインへ渡り、ビックやリポイで、自由七科のうち四科を学んだ。969年にはボレル伯らとローマへ行き、皇帝オットー1世と教皇ヨハネス13世に会った。皇帝は息子の教育係にと望んだが、ジェルベールは学問の盛んなランスへ向かった。972年末か973年初めに着き、教会学校で論理学や修辞学を学んだのち、教師として活躍し、のちのフランス王ロベール2世やシャルトルのフルベールを教えた。981年にはラヴェンナでの討論会で論敵を下して皇帝オットー2世に認められ、983年にボッビオの修道院長に任じられた。しかし職務に追われて学問に専念できず、前院長の一派とも対立して、失望のうちにランスへ戻った。

ランス大司教アダルベロンを補佐し、987年にカロリング家が断絶して、アダルベロンの執り成しでユーグ・カペーが王に推挙される過程でも、その活動を助けたとされる。989年にアダルベロンが没すると、後継に指名されていたが、ユーグ・カペーはロテールの庶子アルヌルフを大司教に任命した。ところがアルヌルフが裏切り、991年に敗れて幽閉されると、サン・バール教会会議で罷免され、代わってジェルベールがランス大司教に選ばれた。フランスの教会の独走に、教皇ヨハネス15世は破門で対抗したが、994年のシェル教会会議で無効とされ、995年のムーゾン教会会議でも決着がつかなかった。教皇に直接訴えようとしたが、教皇がローマから追放されたため、皇帝オットー3世のもとへ赴き、皇帝のローマ進軍に随行して、その家庭教師を務めるようになった。996年、新教皇グレゴリウス5世の教会会議で、彼は大司教座の簒奪者として非難され、アルヌルフの復帰が議決された。998年にオットー3世からラヴェンナ大司教の座を与えられ、皇帝の文書局長として助言者となった。

999年にグレゴリウス5世が没すると、皇帝の推挙で、4月2日、シルウェステル2世として教皇に就いた。名は、初のキリスト教徒の皇帝コンスタンティヌス1世に洗礼を施したシルウェステル1世にならったものである。皇帝の助言者として帝国の政策に関わりつつ、シモニアの禁止や聖職者の独身制など教会改革を進めた。また、ハンガリーのイシュトヴァーン1世に王冠を授け、エステルゴムなどに大司教座を置くなど、東ヨーロッパへの布教にも努めた。1001年1月、ローマ貴族の暴動で皇帝とともに追放されたが、皇帝の没後に貴族と和解してローマへ戻り、1003年5月12日に没した。遺体はラテラノの聖ヨハネ教会に葬られた。

古典写本を各地から集め、時には自作の天球儀を対価にした。算盤の一種アバクスを西欧へ再導入し、天球儀やアストロラーベを用いて実地に教えた。弟子の13人以上が司教や大司教となった。のちに「魔術師教皇」と呼ばれ、コルドバで学んだなどの伝説が生まれたが、資料は否定的に見ている。

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