伝記
セルギウス4世は、11世紀初めのローマ教皇(在位1009年7月31日から1012年5月12日)である。ポルトガル語版によれば第142代にあたり、ローマ司教であると同時に、教皇領の名目上の統治者でもあった。ただし、その世俗の権力は、当時ローマを支配していたクレスケンティウスの陰に隠れていたという。ローマの生まれとされ、生年は不明で、ポルトガル語版は970年とする。名はピエトロ・マルティーノ・ボッカペコラという。英語版によれば、この姓は生まれつきの名でも家の名でもなく、個人的な習慣にちなむとみられるあだ名で、「豚の鼻」を意味するという。ローマのピーナ地区で、靴職人のピエトロとステファニアの子として生まれ、日本語版は、ローマ在住の靴職人であった父の名もおそらくピエトロだとする。貧しい家の出であったが、教会組織の中で才能を発揮し、順調に地位を上げていった。
1004年にアルバーノの司教となった。1009年に教皇ヨハネス18世が退位すると、新教皇に選ばれ、セルギウス4世を名乗った。就任にあたって実名と異なる名を用いた最初の教皇とされることがあり、英語版は、彼の時代以来、選ばれた者が新しい名を名乗る慣行が伝統になったと述べる。ただし日本語版は、ヨハネス2世(在位533年から535年、本名はメルクリウス)か、アガペトゥス1世(在位535年から536年)が、この慣行の最初であった可能性もあるとしている。
彼の権力は小さく、当時ローマを支配していたクレスケンティウスにたびたび影を薄くされた。日本語版はこれを3世、英語版は2世と数える。何人かの歴史家は、彼を本質的にクレスケンティウスの傀儡と見る。しかし別の歴史家は反対の意見を示し、セルギウス4世がローマの反クレスケンティウス派から政治的な後援を受けていた証拠があるとする。英語版によれば、クレスケンティウスの助けを得て、彼はハインリヒ2世がローマの支配権を確立しようとする試みに抵抗した。また、ローマ市を飢饉から救う措置をとり、いくつかの修道院を司教の監督から免除した。
彼の名で出されたとされる文書には、飢饉対策や修道院の免除に関する措置とともに、教皇勅書も含まれる。1009年にファーティマ朝のカリフ、ハーキムが聖墳墓教会を破壊したのち、聖地からイスラーム教徒を追い払うよう呼びかけたものである。この勅書の真偽は長く議論されてきた。カール・エルトマンは真正とみなしたが、アレクサンデル・ギエイシュトルは、第一次十字軍の頃にエルサレム遠征を正当化するために作られたものだと論じて、詳しく退けた。のちにハンス・マルティン・シャラーは、真正であるとの説を唱えている。
セルギウス4世は1012年5月12日に死去し、ラテラノ大聖堂に葬られた。後継者は教皇ベネディクトゥス8世である。死については、殺害されたのではないかという疑いが持たれている。彼のパトロンとみなされるクレスケンティウスが亡くなって1週間もたたないうちに没したからである。聖人には列せられていないが、彼はベネディクト会の会員であったとされ、同会の人々から聖人として崇敬されることがある。
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