伝記
イブン・アブド・アルバッルは、978年11月10日にアンダルスのコルドバで生まれたイスラム法学者である。アラブのナムル・イブン・カースィト族に連なる家の出身とされ、祖父はスーフィーとして知られ、父もコーランの読誦、注釈、法学、ハディースを学んだコルドバの学者であった。自身も宗教学を修め、コーラン解釈、法学、預言者ムハンマドの言行の伝承であるハディース、弁証論、預言者伝へと研究を広げた。学問のためにアンダルスを離れることはなかったが、107人の学者から著作や伝承を伝える許可を受け、そのうち約百人はアンダルスの学者であった。
若いころはザーヒル学派に属していたが、のちにマーリク学派へ移った。同学派のなかでも伝承を重んじる立場をとり、法学派に従うタクリードを支持した。知識とその価値を論じた著作では、一般の信徒は各自の導師に従うべきであり、宗教上の裁定を下すことは許されないという見解を示している。コルドバの王室図書館を管理し、大モスクと付属の学び舎で教えた。弟子の一人がイブン・ハズムである。二人は同時代人で、一部の師も共通していたが、イブン・ハズムはイブン・アブド・アルバッルからハディースを学び、その伝承を受け継いだ。地理、医学、数学、占星術にも取り組んだ。
訪ねてくる学生や学者を通して、アンダルス以外の学問にも接した。エジプト、メッカ、カイラワーンの学者からも伝承の許可を得ていた。アブー・ダーウードの伝承集については、著者との間に伝承者が二人しか入らない伝承経路を持っていた。マーリク・イブン・アナスの『ムワッタ』についても、アンダルスで継承された伝承経路を用いた。著作はハディース、法学、歴史、伝記、系譜、文学、倫理に及ぶ。『ムワッタ』の意味と伝承者の連鎖を詳しく論じた注釈書を著し、ムハンマドに一度でも会った人々を収録しようとした教友伝も編んだ。また、マーリク、シャーフィイー、アブー・ハニーファの三人の法学者を扱う書物も残している。ほかにも相続法、伝承者の属する部族の名称、アラブ人と非アラブ人の系譜を論じ、理性と賢者、神の名、預言者の戦いなどを主題とする著作を手がけた。
学者として名を知られると、各地の君主から宮廷へ招かれた。まずムジャーヒドの治めるデニアに赴き、コーランの読誦に関する著作を執筆した。その死後はバダホスへ移り、ムハンマド・ムザッファルのもとでリスボンとサンタレンのカーディー、すなわち裁判官に任命された。この時期にマーリク学派の法を扱う『カーフィー』や『バフジャト・マジャーリス』を書いた。アンダルスの諸君主の争いが激しくなり、ムザッファルの行動にも同意できなくなると、バレンシアへ戻ってアミール家の保護を受けながら教育を続けた。アブドゥルアズィーズの死後はシャティバへ移り、庭の中にある家で暮らした。その庭は彼の名で呼ばれるようになった。
最後の十年間もシャティバで教授と執筆を続けた。娘は父のもとで教育を受け、旅にも同行し、伝承を伝える許可を与えられた。文学と修辞学に通じた息子はムウタディドの治世に宰相となり、一時投獄された際には父の介入によって自由を取り戻した。死の前年には最初の孫アブドゥッラーに、自分のすべての伝承と著作を伝える許可を与えた。1071年2月初めにシャティバで没した。
同じ年に亡くなった人物
- エドウィン (マーシア伯) (1071年没)
- ヌノ2世メンデス (1071年没)
- ドメニコ・コンタリーニ (1071年)
- ハティーブ・バグダーディー (1071年没)
- イブン・ザイドゥーン (1071年没)
同じ地域に関係する人物
- ハミルカル・バルカ (紀元前228年没)
- Enrique de Osso y Cervello (1896年没)
- マリア・デ・カスティーリャ (1458年没)
- ホセ・デ・リベーラ (1652年没)
- フェルナンド・デ・アラゴン (カラブリア公) (1550年没)