伝記
タティキオスは、1048年ごろに生まれ、東ローマ皇帝アレクシオス1世に仕えた軍人である。父はアレクシオスの父ヨハネス・コムネノスに捕らえられたトルコ系とみられる人物で、コムネノス家の奴隷となった。タティキオスはアレクシオスと同じ家で育った。1078年、まだ皇帝になる前のアレクシオスに従い、ニケフォロス・バシラケスとの戦いに参加し、敵の待ち伏せ計画を見抜いた。1081年にアレクシオスが即位すると、宮廷の上級職に就いた。同年のデュラキオンの戦いでは、オフリド周辺に住むトルコ人と呼ばれた兵を率い、ロベルト・グイスカルドと戦った。この兵たちはハンガリー人であった可能性もある。
1086年にはセルジューク勢力からニカイアを奪い返すため派遣されたが、敵の援軍が近づくと知って退いた。再度の遠征ではマヌエル・ブトゥミテスの海軍支援を受け、ビテュニアでアブル・カシムを破ったものの、都市の奪回には至らなかった。同年末には呼び戻され、フィリッポポリス付近で反乱勢力を助けていたペチェネグ人との戦いに向かった。1087年のドリストラの戦いでは帝国軍の右翼を指揮し、1090年にはアルコントプロイの部隊を率いて300人ほどのペチェネグ兵を破った。1094年初めにはペンテゴスティスで皇帝の天幕を警護し、旧帝ロマノス4世の子ニケフォロス・ディオゲネスによる暗殺の企てを発見した。ニケフォロスは二人の古い友人だったが、追放され、後に視力を奪われた。同年、タティキオスはブラケルナイの教会会議にも出席した。会議はカルケドン司教レオンを糾弾し、タティキオスにはプロトプロエドロスの宮廷称号が記されている。1095年にはクマン人に対する遠征に従った。
1096年、民衆十字軍がコンスタンティノープルを攻撃すると、その防衛に当たった。翌1097年にはツィタスとともに2000人の兵を率い、ニカイアを包囲する十字軍の支援へ向かった。そこでブトゥミテスと協力し、十字軍に知らせないまま都市の降伏を交渉したとされ、この処置は双方の不和を深めた。それでも皇帝は、アナトリアを進む十字軍にタティキオスを同行させた。道案内を務めるとともに、奪回した旧帝国領を帝国へ返させるためであった。十字軍が二手に分かれると、ボエモンやタンクレードらのノルマン人、フランドル伯の一隊に加わり、トルコ勢の強さについて繰り返し警告した。アンティオキアでは、都市を攻める前に周辺を確保して飢えを避けるよう進言したが、受け入れられなかった。
1098年2月、タティキオスは包囲陣を離れた。ボエモンから、他の指導者たちが彼を疑い命を狙っていると告げられたためともされる。一方、ボエモンは、タティキオスが援軍と食糧を持ち帰るという約束を捨て、臆病にも逃亡したと広めた。これにより裏切り者とする非難が生まれたが、本人は私物を陣営に残していた。出発から数週間後の3月4日には、食糧と攻城用の資材を積む船団がアンティオキア近くの聖シメオン港へ到着している。後に皇帝が連絡役を首都で別の任務に就かせたとみる説もある。晩年の詳しい動静は分からず、死去したのは1110年より後とされる。
同じ年に亡くなった人物
- ドナルド3世 (スコットランド王) (1099年没)
- エル・シッド (1099年没)
- ペトルス・バルトロメオ (1099年没)
- ウルバヌス2世 (ローマ教皇) (1099年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。