HISTORICAL PERSON · 1099年没

エル・シッド

11世紀のレコンキスタで活躍したカスティーリャの貴族で、叙事詩『わがシッドの歌』の主人公。サンチョ2世に仕え、アルフォンソ6世に追放されたが、1094年にバレンシアをイスラム教徒から奪回して統治した。

生涯
1099年没
死亡地
スペイン王国(バレンシア県 / City of Valencia)
出生地
スペイン王国(Vivar del Cid)
出典
世界地図
スペイン王国(バレンシア県)

伝記

エル・シッドは、11世紀後半のレコンキスタで活躍したカスティーリャ王国の貴族である。本名はロドリーゴ・ディアス・デ・ビバールといい、1043年ごろに生まれ、1099年7月10日に没した。ブルゴスの北にある小さな町ビバールの出身で、正確な誕生日は分からず、1043年から1045年の間ではないかと言われている。シッドという名は、アラビア語アンダルス方言で「主人」を意味する語に由来し、当時は身分ある人物への敬称として広く使われていたが、のちにロドリーゴの通称として定着した。「カンペアドール」は「戦場の勇者」を意味するとされ、キリスト教徒の同胞が名付けたという。

父ディエゴ・ライネスはいくつかの戦いに加わった軍人で、その縁もあって、若いロドリーゴはサンチョ2世付きの小姓としてカスティーリャの王家に育てられた。1063年春ごろのグラウスの戦いにはサンチョ2世とともに参加している。1065年にフェルナンド1世が死去して領地が息子たちに分割されると、長男のサンチョ2世は全領地を受け継ごうとして弟たちと戦い、ロドリーゴもその下で活躍した。しかしサンチョ2世は1072年に暗殺された。弟のアルフォンソ6世と姉のウラカが首謀者ともいわれるが、定かではない。アルフォンソ6世が王位を継ぐと、ロドリーゴはカスティーリャから追放されたが、その原因としては、サンチョ暗殺への関与を否定する宣誓を強いられた恥辱をアルフォンソが根に持ったためとも、武勲によって民心が自分から離れることを恐れたためともいわれる。追放は生涯で2回、または3回あったとされる。1075年7月には、ディエゴ・フェルナンデス・デ・オビエドの娘ヒメナ・ディアスと結婚し、1男2女をもうけた。

1081年には最終的に追放されたとする説明もある。追放中はサラゴサのタイファの君主に身を寄せ、その息子や孫にも仕えて、アラゴン王国への侵攻の指揮などをとった。現実の彼は反イスラーム一辺倒ではなく、イスラーム教徒とも親しく付き合っていたという。1086年に北アフリカからムラービト朝の遠征軍がカスティーリャに大敗を与えると、アルフォンソは恨みを抑えなければならなくなり、ロドリーゴは再び王に仕えるようになった。その後は王の所領から遠いバレンシアの征服に乗り出し、1094年にこの地をイスラム教徒から奪回した。慕って集まった多くの兵士たちがこれを支え、バレンシアを統治した約5年の間に、幽閉されていた妻子を呼び寄せている。息子ディエゴは1097年にムラービト朝との戦いで戦死した。

1099年に亡くなった後は、妻ヒメナが統治を引き継いだが、数年で領地は失われ、以後100年以上にわたってキリスト教徒はバレンシアを奪還できなかった。彼を主人公とする叙事詩『わがシッドの歌』は12世紀後半から1207年ごろに成立したとされ、最古のスペイン文学として知られる。ただし、その第3部は歴史的には虚構と言われる。愛剣ティソーナは2007年にカスティーリャ・レオン州が160万ユーロで購入し、現在は墓に近いブルゴスの博物館で展示されている。1999年の冶金学的な分析では、刃は11世紀のコルドバで作られたダマスカス鋼の造りと判明した。後世にはピエール・コルネイユの悲喜劇『ル・シッド』が1637年に初演され、これに基づくマスネのオペラも1877年に初演されるなど、創作の題材にもなり続けた。

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