伝記
ティベリウス・センプロニウス・ロングスは、共和政ローマの第二次ポエニ戦争期の政治家・軍人である。生年は不明で、紀元前210年に没した。紀元前218年にプブリウス・コルネリウス・スキピオとともに執政官(コンスル)を務め、ハンニバルの進攻を阻止しようとした人物である。同名の子も後に執政官となった。なお、ティトゥス・リウィウスはこの執政官就任を紀元前219年とする立場をとるともいわれる。
第二次ポエニ戦争の最初の年、センプロニウスはシチリア島へ送られ、五段櫂船160隻を率いてアフリカへ遠征する準備を進める任を負った。ハンニバルがアルプスを越えるとは想像されていなかったためで、同僚のスキピオにはヒスパニアへ向かってハンニバルを牽制するよう命じられていた。センプロニウスはシチリア島のリリュバエウム(現在のマルサーラ)を拠点とする艦隊でマルタ島を攻略した。島に上陸するとカルタゴの指揮官とその部隊が引き渡されたと伝えられる。シチリアに戻ると沿岸の防備を整え、法務官マルクス・アエミリウスに50隻の艦隊を預けて残した。
アフリカ侵攻の準備を終える前に、元老院は彼を呼び戻した。ティキヌスの戦いでスキピオがハンニバルに敗れ、自身も負傷したためである。冬であったため彼はアドリア海を渡らず、メッシーナ海峡を越え、四十日の行軍でイタリアを縦断してアリミヌムに至り、トレビア川の左岸の丘に陣を構える同僚と12月に合流した。しかしセンプロニウスはスキピオの意に反してカルタゴ軍へ攻撃をかけた。初戦の成功に気をよくし、ハンニバルの挑発に乗ったともいわれる。トレビアの戦いでローマ軍は、ハンニバルの弟マゴが率いる精鋭の伏兵にはさまれて包囲され、大敗した。リウィウスはこれを壊滅的な敗北と評している。それでもセンプロニウスは配下の約10,000人とともにカルタゴ軍の後陣を突破し、ピアチェンツァ(プラケンティア)へ逃れた。紀元前217年1月、センプロニウスは危険な旅をしてローマに戻り、新執政官を選ぶ民会を見届けた。この選挙でガイウス・フラミニウスとグナエウス・セルウィリウス・ゲミヌスが選ばれ、とくにフラミニウスの立候補を後押しするための帰還でもあったとされる。彼は冬営地の軍へ戻った。3月、アペニン山脈を越えるのを断念して戻ってきたハンニバルとピアチェンツァ付近で再び戦ったが、勝敗はつかなかった。その後センプロニウスはルッカに退き、執政官職と軍の指揮権はアリミヌムでフラミニウスに引き継がれた。
紀元前215年、センプロニウスはルカニアのグルメントゥム付近でハンノの率いるカルタゴ軍と戦って勝利した。敵に多くの死者を出させ、280人を超える捕虜を得て、ハンノをルカニアからブルッティウム地方へ追い払った。この勝利は、南イタリアのカルタゴ勢力を押し返し、ルカニアの都市を再びローマの傘下に収める契機となった。ローマ軍はハンニバル側についた町を奪い返した。ウェルケリウム、ウェスケリウム、シキリヌムなどがその例で、町は略奪され焼かれ、多数の捕虜が奴隷として売られ、戦利品は兵士たちに分けられた。軍はそのあとルケリアへ進んだ。
その後センプロニウスは聖事十人委員(シビュラの書の管理委員)に就き、紀元前210年に没した。同名の子は父の死後にこの職を継ぎ、のちに執政官となってガリア地方を治め、紀元前194年に執政官を務めた。