伝記
蒙恬は、中国の戦国時代末期から秦にかけての将軍・政治家である。生年は不明で、紀元前210年に没した。蒙驁の孫、蒙武の子で、蒙毅の兄にあたる。蒙氏は蒙驁の代に斉から秦へ移り住んだ一族である。若いころは獄法(刑法)を学び、獄官を務めた。匈奴討伐や建設事業で功績を挙げ、弟とともに始皇帝に重用されたが、趙高らの陰謀によって死に追いやられた。
始皇22年(紀元前225年)、秦王政は20万の軍で楚を攻めるよう李信と蒙恬に命じた。蒙恬は寝を攻めて大勝したが、城父で李信と合流したところを楚軍に攻撃されて秦軍は潰走した。翌年、秦王政は王翦と蒙恬の父の蒙武に60万の大軍を与えて楚を攻めさせ、紀元前223年に楚を滅ぼした。始皇26年(紀元前221年)には、王賁、李信とともに斉を攻めて滅ぼし、これで六国が滅んで秦は天下統一を果たした。蒙恬はこの功績により、国都咸陽と京畿を管轄する内史に任じられた。
統一後の蒙恬は、10余年にわたって上郡を拠点に辺境軍を率い、その威は匈奴を震撼させた。始皇32年(紀元前215年)、方士の盧生が献上した預言書にある「秦を滅ぼす者は胡なり」という文言を重く見た始皇帝が異民族の征伐に乗り出すと、蒙恬は30万の軍で匈奴を討ち、河南地(オルドス高原一帯)を奪った。始皇33年(紀元前214年)には匈奴を退け、榆中から陰山山脈までに44県を設けて九原郡とし、黄河沿いに要塞を築いて防衛線をつくった。同じ年に秦は大長城の建設に着手し、蒙恬は秦・趙・燕の北境の長城の修築を主管した。地形を利用して西の臨洮から東の遼東まで連ね、長さは万里以上に及んだ。ただし、築造に常に数十万人が動員されて死者は膨大な数に上り、民は疲弊しきったとされる。始皇35年(紀元前212年)には、雲陽から九原郡へ通じる道路(秦直道)の建設も命じられた。千八百里に及ぶ道は、蒙恬の存命中には完成しなかったとされる。
同じ年、盧生と侯生の逃亡をきっかけに460人余りが生き埋めにされ、長子の扶蘇が諫めると始皇帝は怒り、扶蘇を上郡の蒙恬のもとへ監督役として送った。外で軍を担う蒙恬と、内で最側近として補佐する弟の蒙毅は、忠信で名高く、他の将軍や大臣は誰も彼らと争おうとしなかったという。始皇37年(紀元前210年)に始皇帝が崩御すると、趙高は李斯と共謀し、末子の胡亥を太子に立てるため遺詔を偽造して、扶蘇と蒙恬に自殺を命じた。扶蘇は即座に自殺しようとしたが、蒙恬は、一人の使者が来ただけで偽りでないと言い切れようか、再び請うてから死んでも遅くはない、と制止した。使者が何度も促すと、扶蘇は自ら命を絶った。従わなかった蒙恬は陽周の監獄に繋がれた。胡亥は釈放しようとしたが、趙高は蒙氏の再起用を恐れ、蒙毅への恨みもあって讒言し、蒙毅も捕らえられて、殺された。胡亥は蒙恬にも死罪を言い渡した。蒙恬は、自分は30万の兵を擁しており反逆もできるが、先祖の教えと先帝の恩を忘れないために義を守るのだと述べ、上書を頼んだが拒まれた。やがて彼は、臨洮から遼東まで万里にわたり城塹を築き、地脈を断たなかったはずがない、これこそ自分の罪だと述べ、毒をあおって自殺した。蒙氏の子孫を名乗る人物はその後の史書に現れず、二世皇帝の代に族滅されたと確認できる。
司馬遷は『史記』で、長城や直道は民の労力を顧みないもので、蒙恬は名将でありながら始皇帝を諫めず、君主に迎合して功を立てたのだから誅殺も当然だと厳しく批判した。一方、李斯は五つの点すべてで蒙恬に及ばないと答えたと記される。蒙恬は筆の発明者とも伝えられるが、現在では改良者とされる。
同じ年に亡くなった人物
- Salisuka (紀元前210)
- ティリダテス1世 (紀元前210年代没)
- リュクルゴス (スパルタ王) (紀元前210年没)
- グナエウス・フルウィウス・ケントゥマルス・マクシムス (紀元前210年没)
- 始皇帝 (紀元前210年没)