伝記
アルドナ・オナ・ゲディミナイテは、ポーランド王カジミェシュ3世の最初の妃となったリトアニアの王女である。1309年ごろ、リトアニア大公ゲディミナスの娘として生まれた。洗礼名はオナまたはアンナで、異教徒としての名であるアルドナは、マチェイ・ストルィイコフスキの記述にしか見えない。ゲディミナスの3番目の妃エヴァ・イワノヴナとの間の4女で、11番目の子にあたり、兄弟姉妹は13人いた。兄弟にはナリマンタス、ヤウヌティス、アルギルダス、リウバルタスがおり、姉妹のマリアはトヴェリ公ドミトリー・ミハイロヴィチに嫁した。
1320年代、ポーランドとリトアニアは共通の敵であるドイツ騎士団に脅かされていた。ポーランド王ヴワディスワフ1世は、ポモジェの領有をめぐる騎士団との争いのなかで味方を探しており、ゲディミナスは、失敗に終わることになるリトアニアのキリスト教化の試みに着手したばかりだった。こうして、ヴワディスワフ1世の一人息子カジミェシュと大公の娘との縁組が決まった。王は教皇の承認を得たが、異教徒と結ぶ決断を快く思わない者もいた。アルドナは1325年の春にポーランドの宮廷に着き、4月30日にカトリックの洗礼を受けてアンナと名づけられた。同年10月16日に結婚したとき、アルドナは15歳か16歳、カジミェシュは15歳ほどだった。詳しい和約の内容は不明だが、ゲディミナスが約2万5000人のポーランド人捕虜を解放したことは知られており、これが持参金だったという。ただし数は誇張かもしれない。カジミェシュは、ボヘミア王ヨハンの娘との縁談を断ってアルドナを選んだ。この結婚による同盟は、のちのクレヴォ合同やルブリン合同の先駆けとされる。
カジミェシュが祭壇まで父に引きずられていったという噂もあるが、おそらく誇張とされる。夫婦仲は穏やかで、アルドナは明るい性格だったと伝えられる。一方で宮廷での評判は芳しくなかった。アルドナがリトアニアの異教の習慣を守り続けたためで、とりわけ義母のヤドヴィガは、息子が異教徒の娘を妻にしたことに不満で、アルドナは祈りより楽しみに熱心だと考えていたという。1326年ごろに長女エルジュビェタが生まれ、同じ年に同盟は実行に移されて、ブランデンブルク辺境伯に対するポーランド・リトアニア連合軍が結成された。だが同盟は強固ではなく、1330年ごろに崩れた。それでも、アルドナの存命中に両国が戦ったことを示す史料はない。
1333年3月2日にヴワディスワフ1世が亡くなり、夫の即位でアルドナは王妃となった。翌1334年には次女クネグンダが生まれた。アルドナは1339年5月末に急死し、クラクフに葬られた。夫のカジミェシュ3世は艶福家として知られ、アルドナの死後に3度結婚した。クネグンダは1345年にバイエルン公ルートヴィヒ6世と結婚したが、1357年に亡くなった。エルジュビェタはスウプスク公ボグスワフ5世に嫁し、1361年に没した。アルドナは敬虔さと音楽への貢献によって記憶され、どこへ行くにも宮廷音楽家を連れていた。年代記作者ヤン・ドゥウゴシュは、行進中にシンバルを叩く習慣は、アルドナが持ち込んだリトアニアの異教の風習ではないかと書いている。
同じ年に亡くなった人物
- フランチェスコ・ダンドロ (1339年)
- 後醍醐天皇 (1339年没)
- 忠粛王 (1339年没)
- Rangjung Dorje, 3rd Karmapa Lama (1339年没)
- アッツォーネ・ヴィスコンティ (1339年)
同じ地域に関係する人物
- カジミェシュ2世 (1194年没)
- ピョトル・スカルガ (1612年没)
- Roger Verey (2000年没)
- ハンナ・ブレイディ (1944年没)
- Jan Puzyna (1911年没)