伝記
後醍醐天皇は、1288年に生まれた第96代の天皇で、のちに南朝の初代天皇となった人物である。諱は尊治という。大覚寺統の後宇多天皇の第二皇子で、母は藤原忠子である。1302年に親王宣下を受け、1304年に大宰帥となって帥宮と呼ばれた。1308年に持明院統の花園天皇が即位すると皇太子に立てられ、1318年、花園天皇の譲位を受けて31歳で践祚し、即位した。即位してからの3年間は、父の後宇多法皇が院政を行った。1321年に院政が停止されて親政が始まると、後醍醐は治天の君となった。1324年には倒幕を計画した嫌疑をかけられ、六波羅探題が側近の日野資朝を処分する正中の変が起こったが、公式の判決では後醍醐は無罪とされた。
1331年、倒幕の計画が側近吉田定房の密告で発覚し、身に危険が迫ると、後醍醐は急ぎ京都を脱出し、三種の神器を持って挙兵した。比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山に籠城したが、幕府の大軍の前に落城して捕らえられた。これが元弘の乱である。幕府は後醍醐を廃し、皇太子の量仁親王(光厳天皇)を即位させ、翌1332年に後醍醐を隠岐島へ流した。この間、皇子の護良親王、河内の楠木正成、播磨の赤松則村らが各地で幕府に抗していた。1333年閏2月、後醍醐は名和長年ら名和一族を頼って隠岐を脱出し、伯耆の船上山で挙兵した。幕府から送られた足利高氏が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略し、東国で挙兵した新田義貞が鎌倉を落として北条氏は滅んだ。
1333年6月に帰京した後醍醐は、「今の例は昔の新義なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」と宣言して建武の新政を始めた。光厳天皇の即位を否定してその時の人事をすべて無効とし、幕府と摂関を廃して、両統迭立をやめ皇統を大覚寺統に一統した。護良親王を征夷大将軍とし(数か月後に解任)、足利高氏には自らの諱から一字を与えて尊氏と名乗らせ、鎮守府将軍や参議に任じた。記録所や雑訴決断所などの機関を再興あるいは新設し、地方には北畠顕家を陸奥将軍府に、足利直義を鎌倉将軍府に置いた。1334年には建武と改元し、皇太子には実子の恒良親王を立てた。
1335年、北条氏の残党が起こした中先代の乱を鎮めるため、勅許を得ないまま東国に向かった尊氏が、鎌倉で将士に独自に恩賞を与えた。これを離反と見た後醍醐は新田義貞に尊氏の追討を命じた。義貞は箱根・竹ノ下の戦いで敗れたが、京都で楠木正成や北畠顕家らと連携して足利軍を破り、尊氏は九州へ落ちた。翌1336年、尊氏は態勢を立て直し、光厳上皇の院宣を得て再び上洛を目指し、湊川の戦いで新田・楠木軍に勝って、正成は討ち死にした。足利軍が京に入ると、後醍醐は比叡山に逃れたのち和睦に応じて神器を渡し、尊氏は光明天皇を立てて建武式目を定めた。後醍醐は幽閉先の花山院を脱け出し、渡した神器は偽物だとして吉野に自らの朝廷を開いた。懐良親王を征西将軍として九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へ送り、尊良親王と恒良親王は義貞に奉じさせて北陸へ向かわせた。劣勢を覆せないまま病に倒れ、1339年8月15日、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日に世を去った。満50歳であった。温和な人柄で慕われ、のちに敵となった尊氏からも生涯敬愛されたとされる。能書の帝でもあり、書跡4件が国宝に指定されている。
同じ年に亡くなった人物
- Rangjung Dorje, 3rd Karmapa Lama (1339年没)
- フランチェスコ・ダンドロ (1339年)
- 忠粛王 (1339年没)
- アレクサンドル・ミハイロヴィチ (トヴェリ大公) (1339年没)
- アッツォーネ・ヴィスコンティ (1339年)