伝記
マリア・デ・パディーリャは、カスティーリャ王ペドロ1世の愛妾である。1334年頃に生まれた。生家のパディーリャ家は、ブルゴス地方のパディーリャ・デ・アバホ家などの流れをくみ、カストロヘリスの代官位にあった。生地はアストゥディージョ(現パレンシア県)とされるが、異説もある。ペドロ1世は、アストゥリアスで反乱を起こした庶兄エンリケ・デ・トラスタマラ(のちのエンリケ2世)を征伐したときに彼女を見知ったとされ、1352年に出会ったという記録もある。以来、マリアは愛妾となり、結婚を超えた王の熱愛の対象となった。美しい娘だったと同時代の年代記は伝えるが、彼女の生涯については多くがわかっていない。
1353年、ペドロ1世はバリャドリッドでブルボン公ピエール1世の娘ブランカと結婚した。しかしこれは、寵臣アルブルケルケと王太后マリア・デ・ポルトゥガルが画策した政略結婚で、すでにマリアを愛していた王が望んだものではなかった。王は結婚の直後に新妻を捨て、約束された持参金が支払われなかったことも理由として知られる。マリアのもとへ向かったとき、二人の間にはすでに第1子ベアトリスが生まれていた。ブランカは王太后のいるメディナ=シドニアへ移されたが、二人は王権に反抗する勢力に利用された。エンリケらとアルブルケルケが王の最大の敵となり、王母マリアまでもが彼らに与した。王は小貴族や自治都市の市民、ユダヤ人共同体から支持を受け、エンリケは大貴族やアラゴン王ペドロ4世の支持を受けた。教皇インノケンティウス6世は、マリアを遠ざけて王妃と暮らさなければ破門にすると警告し、王はバリャドリッドで王妃と過ごしたが、たった2日間だけだった。
1354年、王はフアナ・デ・カストロとの結婚のために、ブランカとの結婚の無効を強いたが、どちらも認められず、フアナはすぐに捨てられた。王はトロに閉じ込められたが、脱走に成功した。王の身柄が拘束されている間に、マリアは第2子コンスタンサをカストロヘリスで生んだ。マリアは、自身が支援するシトー会の尼僧のための修道院設立の許可を教皇に申請し、手紙の中で尼僧になることをほのめかしたが、王がフアナを捨てて戻ったため、修道院には入らなかった。1355年に第3子イサベルを生み、1356年には反国王派を打ち負かした王がブランカをアレバロ、次いでトレドへ移した。マリアはこの年、トルデシリャスで第4子アルフォンソを生んだ。
1361年、王はブランカをメディナ=シドニア、続いてヘレス・デ・ラ・フロンテーラへ移し、マリアを王妃にするため殺害を命じたとされる。しかしマリアは、セビーリャのアルカサルで急逝した。同時代の年代記によれば、死因はペストだった。彼女は自らが設立したアストゥディージョのサンタ・クララ修道院に葬られ、王は最愛の女性の死に涙し、打ちひしがれたという。1年後、セビーリャのコルテスで、王は貴族らを前にマリアを唯一で正当な王妃と宣言し、その子供たちが嫡出子であることも承認された。棺はセビーリャ大聖堂の王家の礼拝堂へ移された。
ベアトリスは尼僧となり、コンスタンサはランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの妃、イサベルはその弟のヨーク公エドマンドの妃となった。アルフォンソは王位継承者と宣言されたが夭折した。
同じ年に亡くなった人物
- ルートヴィヒ5世 (バイエルン公) (1361年没)
- フィリップ1世 (ブルゴーニュ公) (1361年没)
- ヨハネス・タウラー (1361年)
- ナースィル・ハサン (1361年没)
- フィリップ・ド・ヴィトリー (1361年)
同じ地域に関係する人物
- アメリゴ・ヴェスプッチ (1512年没)
- イブン・ザイドゥーン (1071年没)
- ニコラス・デ・オバンド (1518年没)
- ルイサ・フェルナンダ・デ・ボルボーン (1897年没)
- テウディス (548年没)