伝記
フィリッポ2世は、アカイア公、ターラント公で、名目上のラテン皇帝でもあった人物である。1329年、ターラント公フィリッポ1世とカトリーヌ・ド・ヴァロワ=クルトネーの息子として生まれた。父方の祖父母はナポリ王カルロ2世とハンガリーのマリア、母方の祖父母はヴァロワ伯シャルルとその二人目の妻カトリーヌ・ド・クルトネーである。
フィリッポが生きた時代は、アンジュー家の諸家が憎み合っていた時代であった。1309年にロベルト賢王は、甥のカルロ・ロベルトを王位から退けていた。そのカルロ・ロベルトの子アンドラーシュは、ロベルトの孫娘ジョヴァンナを妻としたが、王位に就くと夫婦は不和になった。ジョヴァンナは愛人でフィリッポの兄にあたるルイージ・ディ・ターラントの助けを得てアンドラーシュを殺させ、ルイージと結婚して王位に就けたともいわれる。1347年、アンドラーシュの兄であるハンガリー王ルイ(ラヨシュ)が仇を討とうとナポリ王国を攻めた。ルイージはプロヴァンスへ逃れたが、ルイは弟たちを捕らえ、フィリッポもその一人であった。1348年に従兄弟のドゥラッツォ公カルロが処刑されると、フィリッポはアルバニア王位を継いだ。
1355年4月、ジョヴァンナ1世の妹マリア・ディ・カラブリアと結婚した。同じ年の12月にはプロヴァンスの代理官となった。1360年にようやく解放されてナポリへ戻ると、姉のマルゲリータが兄弟の同意を得ずにアンドリア公フランソワ・デ・ボーと結婚していたことに腹を立て、義兄に戦争を仕掛けた。戦いの詳しいことは分かっておらず、教皇の介入で終わったとされる。
フィリッポははじめアッチェッラ伯の称号を持っていた。1364年に兄のロベルトが亡くなった。ロベルトはギリシャにおける自分の権利をフィリッポが継ぐと指名しており、フィリッポは名目上のラテン皇帝位、アカイア公位、ターラント公位を継承した。皇帝としてはフィリッポ3世とも数えられ、コンスタンティノープルの皇帝を称した。ところがアカイアでは、兄の未亡人がその国の大部分を実際に押さえており、フィリッポの請求に対抗して内戦となった。争いは1370年、未亡人が自分の権利を6,000フロリンで売って決着したが、フィリッポが実際に手にできたのは公国のごく一部にすぎなかった。妃マリアは1366年に亡くなっていた。1370年10月20日、フィリッポはかつてハンガリーの推定王位継承者であったスラヴォニア公イシュトヴァーンの娘エルジェーベトと再婚した。1371年にはサレルノ公領、バーリ公領、ラクイラ伯領の権利を主張した。1373年にはアカイア公国に対する権利を、ジョヴァンナ1世に譲った。フィリッポは1373年11月25日にターラントで亡くなった。1374年とする説もある。
マリアとの間には、1356年、1358年、1360年に三人の男子が生まれたが、みな早世し、1362年と1366年には死産もあった。エルジェーベトとの間にも1371年に男子が生まれたが、同じく早世した。何人かの庶子もいる。子がみな早く亡くなったため、姉マルゲリータの子ジャック・デ・ボーが公位と名目上のラテン皇帝位を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- マグヌス2世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公) (1373年没)
- Guy of Boulogne (1373年)
- エリーザベト・フォン・ベーメン (1373年没)
- イブン・カスィール・ディマシュキー (1373年)
- イヴァン・ステファン (1373年没)
同じ地域に関係する人物
- ニコラ・ファーゴ (1745年没)
- コルメラ (70年没)
- アルキタス (紀元前347年没)
- ジャック・デ・ボー (1383年没)
- ジョヴァンニ・パイジエッロ (1816年没)