伝記
シビラ・デ・フォルティアは、アラゴン王ペドロ4世の四番目の妃である。1350年頃に生まれたとされる。父はベレンゲー・デ・フォルティア、母はフランセスカ・デ・ビラマリである。フォルティア家は、アンプリアス伯領のアンプルダンの田園地帯に所領をもつ下級貴族の家柄であった。若いころは生まれつきの美貌で知られたという。最初にアラゴンの騎士アルタル・デ・フォセスと結婚したが、結婚した年は分かっていない。
寡婦となったシビラは、ペドロ4世の三番目の妃であるシチリアのエレオノーラの侍女となった。王夫妻が、シビラの郷里のアンプルダンに滞在したのがきっかけであった。エレオノーラは1375年に亡くなり、国王には二人の息子と一人の娘が残された。息子はのちのフアン1世とマルティン1世、娘はエレオノーラである。そのころ二十代であったシビラは、すぐに王の目にとまり、愛人となった。王は五十六歳であった。息子のフアンとマルティンは、父の関係を知って再婚に強く反対した。王朝の継承に問題が生じることを恐れたためで、結婚の発表によって、王と息子たちの関係は緊張した。
1377年10月11日、バルセロナで、ペドロ4世はシビラと結婚した。その前に、シビラは息子アルフォンソを産んでいたと考えられ、アルフォンソはモレリャ伯の称号を与えられたが、1年ほどしか生きなかった。この出産には疑問も出されており、記録は『ペドロ4世の年代記』にしかない。結婚後に生まれた二人の子は、1379年4月に生まれて死んだペドロと、1380年に生まれた娘イサベルである。イサベルはウルジェイ伯ジャウマ2世と結婚し、のちにコインブラ公爵夫人となるイサベル・ダ・ウルジェイを産んだ。その系譜を通じて、ペドロ4世とシビラは、ポルトガルの王女ジョアナや、ジョアン2世の祖先にあたる。
時がたつにつれて、状況は悪くなった。シビラの家族は宮廷に招かれ、王はシビラの兄弟ベルナトを寵愛し、侍従に取り立てた。シビラは、フアンの最初の妃マルタ・ダルマニャックとは良い関係にあったが、二人目の妃ヨランド・ド・バールとは折り合わなかった。ペドロとシビラとその家族が一つの派閥を作り、フアンとヨランドとその支持者が別の派閥をなして、宮廷は二つに割れた。
1387年にペドロ4世が亡くなると、フアンとヨランドが王と王妃となり、シビラを厄介払いしようとした。シビラは身の安全のためサン・マルティ・サロカへ逃れた。この地には、継娘のエレオノーラが亡くなる前に住んでいた。しかし、シビラの一族であるアンプリアス伯が、アルマニャック伯ジャン3世の助けを得て王に武器を取って反抗したが敗れ、シビラは捕らえられて、フアンとヨランドの命令で投獄された。殺されることはなく、バルセロナで厳しい監視のもとに暮らしたが、宮廷にいるよりも待遇はよかった。やがてすべての権利の主張を放棄する代わりに年金を受け取るようになった。1396年にフアンが亡くなり、マルティンが即位した後も、シビラはバルセロナにとどまった。1406年11月にバルセロナで亡くなると、マルティン王の命令により国葬が営まれた。遺体は、歴代のアラゴン王と王妃の墓所であったバルセロナのサン・フランセスク修道院に葬られ、のちにポブレー修道院に移された。19世紀に修道院が取り壊されると、1852年4月20日にバルセロナ大聖堂へ改葬され、1998年10月13日に聖堂の内部へ移された。
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