伝記
ルキウス・セプティミウス・セウェルスは、ローマ帝国の皇帝である。146年4月11日に生まれ、193年4月9日に即位し、211年2月4日に没するまで在位した。セウェルス朝の創始者で、アフリカ属州の生まれの皇帝となったカルタゴ人である。
生地は北アフリカのレプティス・マグナである。父プブリウスは騎士で、ポエニ戦争時代に軍功を上げて領地を与えられた名門の一族の出だが、政治的地位はなく、本国の貴族から見れば田舎貴族にすぎなかった。ただ親族のガイウス・セプティミウス・セウェルスらがアントニヌス・ピウス帝の治世に総督などの重職を務めていた。母フルウィアはイタリア本土の由緒ある血筋で、親類に近衛隊長や執政官がいる。幼少期は一貫して故郷で過ごし、ラテン語やギリシア語のほか、土地のフェニキア語も流暢に話したという。そのため彼のラテン語には訛りが残り、「カルタゴ訛り」と揶揄された。カッシウス・ディオによれば弁論学を学び、十七歳で初めて公の場で演説した。
162年ごろ、宮廷での仕官を望んで帝都に出た。しかし護民官に選ばれず、財務官も最低年齢の二十五歳まで待たねばならなかった。166年の疫病の流行で故郷での静養を余儀なくされたが、169年に戻って財務官に当選し、元老院の名簿に載った。170年から180年にかけて多くの役職を歴任できたのは、疫病で元老院議員に多くの病死者が出た人材難のためとも見られている。結婚は三十代半ばと遅く、175年に同郷のパッキア・マルキアナと結ばれたが、子のないまま彼女は186年に亡くなった。後妻には、シリアのエメサで太陽神を奉じていた神官の娘、ユリア・ドムナを迎えた。博識で野心に富む彼女にセウェルスは一目置き、政治を相談することもあったという。二人の間には、のちのカラカラとゲタが生まれた。
コンモドゥス帝の時代には要地パンノニアの総督となっていた。コンモドゥス暗殺後、ペルティナクスが処刑され、後継のディディウス・ユリアヌスも民心を得られないと見ると、帝位を求めて動き出す。ユリアヌス軍を破って元老院の支持を取り付け、三人目の皇帝となった。これに対しシリア総督ペスケンニウス・ニゲルとブリタンニア総督クロディウス・アルビヌスが抵抗する。セウェルスはアルビヌスを副帝に指名して懐柔し、東方でニゲル軍を破った。その後、約束を破って息子のカラカラを副帝にすると宣言したためアルビヌスが挙兵し、ルグドゥヌムの戦いで敗れて戦死した。両者の一族は皆殺しにされ、権勢は確固たるものとなった。
197年にはパルティアとの戦争を始め、首都クテシフォンを陥落させ、講和でティグリス川沿いまで領土を広げた。軍団の総数を三十三個に固定し、軍団兵の給与を年三百デナリウスから五百デナリウスに引き上げるなど、軍を優遇した。これは軍事独裁の色合いを強め、後の軍人皇帝時代への布石になったとされる。パルティア戦争の勝利を祝ってセプティミウス・セウェルスの凱旋門が建てられ、故郷のアフリカでも遠征を行ってガラマンテス族を南の砂漠へ追い払った。一方で元老院議員を多数処刑し、近衛兵隊も粛清して従順な者で再編した。晩年の208年には北のブリタンニアへ遠征し、ハドリアヌスの長城を補修して、ピクト人を破った。210年にピクト人と和睦を結んだが、遠征のさなかにエボラクムで病没した。死後は二人の息子カラカラとゲタが継承した。197年ごろからは古い友人の近衛隊長プラウティヌスに国内行政を任せ、自らは外征に専念したとカッシウス・ディオは伝えている。
同じ年に亡くなった人物
- 周瑜 (211年没)
- プブリウス・セプティミウス・ゲタ (211年没)
- Serapion of Antioch (211年没)
- Narcissus of Jerusalem (211年没)
- Marcus I of Byzantium (211年没)
同じ地域に関係する人物
- Mary Elizabeth Coleridge (1907年没)
- ゴードン・マックイーン (2023年没)
- コンスタンティウス・クロルス (306年没)
- フレデリック・オーペン・バウワー (1948年没)
- ジョナサン・ライリー=スミス (2016年没)